2016年8月16日火曜日

母、がんになる その3

母のがん治療は始まったばかりで、これから先の見通しを立てるにも来月の腫瘍マーカーの結果を見てからでないと何も考えられないのだが、この2か月程で痛感したのは精神的なケアの体制が不十分だったこと。病院の精神的なケアも万全とは言いがたく、テクニカルな治療は進んでいるのだろうが、心が置き去りになっている気がしてならなかった。そこは家族が支えれば良いのだろうが、家族も当事者である以上なかなか難しい。

私は福岡の九州がんセンターで手術を受けたのだが、精神的なケアにもかなり力を入れていたようで、むしろ「がんの一歩手前であって決してがんではない」私は逆に申し訳なくて困ったほどだ。ところが、佐賀医大ではテクニカルな実績は強調しても、何かが足りない。医師の説明もついても、私には通じたが母が完全に理解していたかどうかは怪しい。もし、仮にだが、医師が「娘さんが理解したんだったら、娘さんがお母さんに説明してあげてね」なんて考えているとしたらどうだろう? まあ、そんなことはないと信じたいが。

高齢者特有なのか不明だが、「誰にも言わんでいいから」と近い親戚にもがんになったことを言わないし、隠そうとする。これは姑も同じで、「お見舞いとか気を遣わせるから誰にも言わない」ということが多々ある。今回はたまたまお中元シーズンと重なり、従姉が私の実家に電話をした時にいるはずのない私が電話に出たので「おばちゃんは?まさかまた入院?」とすぐにバレた。もちろん、瞬時にして従姉から叔母にもバレた。私は近い身内には知らせて、「みんなも健康診断を受けなさい」と啓蒙すべきだと言うのだが。そして、隠したがる人たちは逆の立場になったときに「なんで教えてくれんかった?言ってくれればいいのに!」と言うのだ。

お盆に近所に住む親戚の姉ちゃんを誘って食事に出かけた。食欲のない母の様子を見ておかしいと感じた姉ちゃんが「姉さん、どうした?夏バテ?」と心配するので、唐突に私は「違うんよ。お母さん肺がんになって先月手術したもんでまだちょっと落ち込んで食欲が出らんのよ」と盛大にバラした。母は「ちょっと!」と一瞬焦ったし、姉ちゃんは「えー!」とオロオロしたのだが。ただ、その後母は気が楽になったのか「ねえ、傷口見る?ここにね管が入ってたんだけどね。今はこれだけで手術できちゃうんだからびっくりするよね?」と堰を切ったように話し始めた。母は父と弟と暮らしている。娘の私とは決して仲が良いとは言えない。親しい友達は近所におらず、地元の友達は認知症で会話も成立しない。遠方の友達は施設に入っているらしい。察するに、母は誰かに愚痴をこぼしたかったのではないか。

私は長いことうつ病を患っていたのだが、そのときに一番ありがたかったのが適当な距離がある話し相手だった。まず、血が繋がっているといけない。過度に心配されてしまったり、真剣に励まされたりすると立ち直れないほど落ち込む。だから、責任のない立場の人に時々愚痴をこぼして「大変だねー」と一言言ってもらうとそれで救われた。だから、母にもきっと「へー、大変よねー」と言ってくれる人がいれば救われると思った。もし、それが精神的なケアを学んだ人であれば理想的だと思う。私や弟は実の親子であるから時に冷静さを失う。父は子供っぽい人なのでちょっと無理。近所に住む親戚の姉ちゃんは父の従妹でたまに話を聞いてくれるが、必要以上に関わってくることはない。母とは他人だから。


母、がんになる その2

かくして、去る7月8日、母は肺がんとおぼしき部位を内視鏡を使って切除するための手術を受けた。手術の3日前に入院し、同室の方とも仲良くなっていたのだが、本人は内心「できることなら手術したくない」という思いを抱き続けていた様子。その一方で、早期発見により短期間の入院で寛解した人の例を間近で見聞きしたことで若干前向きになってもいた。

手術当日は福岡にいる叔母夫婦も駆けつけてくれて、賑やかに送り出した。ここまでは全員「ちょっと切るだけだから、まあ明日にはケロリとしているだろう」と非常に楽観的だった。

手術は全身麻酔で行われ、手術中は人工心肺を使用して本人の心臓と肺は止めるらしい。肺の一部を切除するため肺が動いていては正確な切除ができないということに加え、がんと思われる細胞が「フワフワ」したものでキャッチしにくいため肺の空気を抜いて平らにしてから切除するらしい。胸と背中に合計3か所、それぞれ2センチほど切開してカメラやメスなどの機器を挿入する。術後は胸腔内に溜まった血液や水を抜くためのドレーン(管)を留置する。食事は当日夕食から可能。翌日からは体を動かし、できればトイレも自分で行くことを目指すという。私が子宮頸部の切除手術を受けた時もほぼ同様のスケジュールだったので、「まあ、そんなもんだよね」と母も納得していた。気がかりなのは全身麻酔の覚醒後にどの程度吐き気がするか?くらいで。ちなみに、私は麻酔の種類にかかわらずほぼ確実に覚醒した後は吐き続ける。この体質が母似だとしたら母もそうだろうと予想した。

予定通りに午後1時に手術は始まった。予定では午後4時ごろまでということだったが、実際に終わったのは午後5時過ぎ。まず、予定していたセグメントを切除した後に簡易検査を行い、がん細胞であることが確定した。そこで、「念のために」周辺部も切除したという。区域切除から部分切除へとグレードアップしたというわけだ。

母のがん細胞は右肺の下葉の一番下のあたりに位置していた。高齢ということもあり、下葉部を全て切除することは避けた(切除後の肺活量低下によるQOL低下を防ぐため)。手術室から個室へと移動したものの、案の定吐き気が酷い様子。おまけに痛みが尋常じゃない。呼吸するたびに動く臓器の一部を切り取ったのだから痛いのは当たり前だとしても、術前の説明から考えても想定をはるかに上回る痛がり方。どちらかというと痛みには強い方だと思っていたが、座薬を入れても全く効いている気配がない。痛いわ、吐き気はするわ、体を動かすと激痛、呼吸すると激痛と踏んだり蹴ったりの状態に。術前はまったく自覚症状がなく平穏な生活を送っていたのだ。それなのに、ほんの数時間で地獄の苦しみに苛まれている。

本来であれば術後はICUに入るはずだったが、ICUに空きがなくナースステーション近くの個室で回復まで過ごすことになった母。母の希望で病室に泊まることになった私はというと、午後5時を過ぎていたため簡易ベッドを借りることができず、ダイニングチェアを借りてベッド代わりにした。食事は病院内のコンビニで弁当を買った。

痛がる母に何をしてやれるのか?何もない。ただナースコールをして「痛がってますけどぉ」と伝えるのみ。座薬も注射も無制限に投与できるはずもなく、「あと4時間は打てないんですよ」とか、「次は午後11時ごろです」とか言われるだけ。呼吸した時に胸郭が膨らむのを抑えるためにベルトで締めつけてもあまり効果がない。痛みでジタバタするとベルトがずれて傷にあたり、また別の痛みで騒ぎ始める。

とうとう深夜近くになり、付き添っている私のぐったり加減を見た執刀医(若い女性だったので研修医かな?)が「これで痛みが止まるとおもいます」と意を決した顔で注射器を持ってきた。確かに痛みは和らいだようだったが、その後の吐き気がさらに酷くなった。女性執刀医の話では「これ、麻薬指定の薬なので副作用が酷いんです。あと、これは最後の手段なのでこれより強い薬はありませんし、この薬はもう使えません」と。

先に言えよ!打つ前に言えよ!と、ちょっとイラっとした。

翌朝、痛みは若干和らいだものの酷い吐き気と頭痛で目も開けられない状態。痛み止めを経口投与しようにも水すら受け付けない。水を飲み込んでもすぐに吐き気がするので飲むのを拒否する。このあたりから私はイライラし始めた。私は元々薄情なタイプだし、母とはいろいろと微妙な関係だったため突然看病する羽目になって「嫌だなあ」という気持ちの方が強く、「何とかしてあげたい」という気持ちになれなかった。母にしてもそういう私の苛立ちを察しているため、痛さや薬の副作用に加え娘に対するもどかしさもあって相当苛立ちを感じたと思う。

痛みと吐き気で苦しむ母に「お母さん!再発したらどうすんの?手術する?治療受ける?」と聞いたら「絶対にイヤ!」と言った。これに関しては先日も「もう二度とあんなのはイヤだ」と言っていた。


医者は自分が体験したわけではないので、「痛みはコントロールできる」と思っている節があった。痛みや薬に対する副作用は個人差が大きいので、最悪のケースを想定した上でどのような対応をしてもらえるのか事前の確認が必要だった。何度目かの痛み止めの投与時にふと思ったのだけど、もちろんカルテに逐一処置を記載しているとはいえ、付き添っているのであればその間のログを取ることも後々役に立つのかもしれない。例えば、点滴や薬を写メって画像データでEvernoteなどに保存して投与時間や投与後の反応などをメモしておくといいのかもしれない。ただ、「そこまでするか?」という気持ちも同時にあって、私の中でもちょっとした葛藤の連続だった。

たった、一晩で根を上げた私は父に電話して「お父さんが泊まってよ!」と、これまた高齢の父に付き添いを押し付けた。

実家で弟と二人で食事をしながら、「手術受けさせない方がよかったんじゃないか?」とか「他の選択肢を検討した方がよかったんじゃないか?」とか、今後再発や転移があった場合どうすればいいのか?を話し合ったが、もちろん結論は出なかった。


当初の予定よりすべてが1日遅れの回復だったのだけど、術後2日目にしてようやく食事を取れる状態になった母は、「ご迷惑をおかけしましたねー」と電話口で力なく言った。術後1週間ほどで退院できたものの、いまだに食欲がなく、手術を受けたことを悔やみ続けている。そして、その姿を見る家族もまた手術を受けさせたことを悔やみ続けることになってしまった。先日、生検の結果を聞きに行って、「腫瘍マーカーに気になる点があるのでもう一度CT撮って、腫瘍マーカーをもう一度調べましょう」と言われたらしい。ただ、毎度のことだが高齢者からの伝聞情報は劣化する。100%正確に伝わった試しがない。次回の診察日は仕事は休みにして私も同行することにした。もちろん、いろんなサイトで情報を集めている。緩和ケアも含めて。

保険の給付金請求のために書いてもらった診断書に「進行性肺がん」と書いてあったらしく、母は気丈に振舞ってはいるものの意気消沈している。とはいえ、私の目で診断書を見たわけではないので、小細胞がんなのか非小細胞がんなのかも不明。しかも、来週は父が心臓の定期検査で一泊入院するらしく、検査結果を聞きに来てくれと言う。詳細を問い詰めると、結局その日一日中「家族の誰か」の付き添いが必要らしい。

母は今回のことがあり、「涼しくなったら遺影用の写真を撮りたい」とか「今まであんたにずっと洋服を捨てろって言われてたけど、やっと捨てる気になったよ」とか殊勝なことを言い始めた。私は母との間の微妙な距離感が縮まることもなく、いまだに「嫌だなあ」と心のどこかで思っている。

母、がんになる その1

母ががんになるという予想外の事態が発生したので、高齢者の介護やがん治療などを考える上で備忘録として記録していこうと思う。

母について
1937年生まれ、現在79歳。福岡県大牟田市出身。元スモーカー(ヘビーではない)。

5月中旬、かかりつけの病院で定期的に健康診断を受けて、肺のX線写真に小さな影が認められる。佐賀大学医学部付属病院(以下「医大」)を紹介され5月下旬受診。CTでも陰影が認められる。この時に担当医から私に電話がかかってきて、直接説明したいということで両親と一緒に後日医大へ。

担当医からの説明
がんとは確定できない。画像診断でがんと確定できるのは肝臓がんだけで、その他のがんは実際に組織を調べなければ確定できない。この時点でがんが疑われる細胞の大きさは2センチ未満。仮にがんであったとしても初期の原発性肺がんであり、内視鏡による区域切除で切除できる。がんの悪性度が低ければそこで治療終了。検索キーワード「GMM」、「すりガラス状陰影」、「原発性肺がん」、「早期肺がん」、「区域切除」で調べると情報を見つけやすいからとメモをもらう。

母本人に自覚症状は皆無。そのため手術を受けることを渋るものの、早期発見で内視鏡で切除できるのであればその方が長い目で見て負担が軽いのではないか?ということで、担当医、父、私ともに手術を勧め、母の誕生日である7月8日に手術を受けることが決定。本人最後まで渋っていたものの、「これっきりで終わるのなら仕方ないね」と了承。

高齢者の場合、子供がいれば必ず子供が同席する、子供がいない場合は患者より若年の人間が同席して担当医からの説明を受けることになっているらしい。「天涯孤独な人はどうするのか?」と質問したら、「地域の民生委員やお友達でもいいんですよ」とのこと。高齢者の理解力が怪しいからというより、どちらかというと「冷静な証人としての役割」を担ってもらうのだという話だが、「高齢者の理解力が不確かなため」だと今も思っている。


母は福岡県大牟田市出身なのだが、母が住んでいた頃の大牟田といえば炭鉱が基幹産業で非常に景気が良く、活気ある街だったらしい。ただ、戦時中は軍需工場や炭鉱が空襲の標的となっていたため、焼夷弾が自宅の屋根を突き破って落ちてくる、空襲警報がなると防空壕に避難するのが日常的になっていたらしい。雨で浸水した防空壕で一晩過ごし肺炎になり、生死の境をさまよったこともあるらしく、健康診断ではよく肺のX線写真に影が映ると本人が話していた。また、私の個人的な疑問として、大牟田市は高度成長期には北九州と並んで公害が深刻な問題であったこと、母が元スモーカーであったこととの因果関係は不明だが、果たしてゼロと言えるのだろうか?ただ、それを知ったところで現状は変わらないので担当医に質問もしていない。

本人が最後まで渋っていたことに関し、これは後に家族全員が一時的に激しく後悔することににもなるのだが、まず手術を受けることを私は積極的に勧めた。その理由は、内視鏡で切除できる程度の大きさで早期であること。私自身が子宮頸がんの検査で見つかった高度異形成(初期がんの1つ前の段階)を切除し(実際に手術を受けるまで4年ほど経過観察)、その手術が1週間程度の入院で済み、がんのリスクから解放されたこと。しかも、ほぼ痛みらしい痛みがなかったこと。この2つの理由で手術を勧めたのだが、私の中では明確に基準があって、80歳を過ぎたら体に負担が大きな手術は受けさせない、抗がん剤や放射線治療が必要になっても受けさせない。経鼻チューブや胃瘻での栄養補給は受けさせない。さらにこの基準については祖母の介護を通して母と話し合い、母の希望を反映させたものである。決して私がケチだからとか、母とあまり仲良しじゃないからという理由ではない。

今回手術を受けるよう説得したのは、母は79歳で早期発見であったことが大きかった。

ちなみに、手術を受けた本人の母は「自覚症状もなかったのに、あんな辛い目に遭うんだったら手術なんてするんじゃなかった!」と酷く後悔しているし、行き場のない怒りのようなものがある様子。

ここまでの大きな反省点は、早期がんの手術であってももっと情報を収集して話し合いの時間を持つべきだった。最終的な判断は本人の希望を第一にすべきであったの2点。