2021年11月30日火曜日

キープ・オン・ロッキン!

BGMが消えて暗くなった会場にロケットエンジンの音が響き、カウントダウンが始まる。ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン、ゼロ! 目に飛び込んでくるスポットライトの光。煙草をくわえ、塗装が半分近くはげてしまった「ブラックビューティー」を抱えてあの人が現れる。電源が入ったままシールドを突き刺されたことにガリガリと抗議するマーシャルを無視して、アンプのつまみをすべて、ためらうことなく10に合わせる。スピーカーのハウリングが客をあおる。彼の名前は鮎川誠、通称まこちゃん。福岡出身のロックバンド、シーナ&ザ・ロケッツのギタリストだ。

はじめて彼の演奏を聴いたのは20数年前。無骨で真っ直ぐなギターサウンドが、人生の谷底にいた私のハートに一瞬で火をつけた。

数年前、福岡空港近くで彼の姿を見かけた。思わず駆け寄り、小声で「がんばってください」と声をかけると、「はい、ありがとうね」と温かい手でしっかりと握手してくれた。

元ロックバンドのギタリストである知人にこの話をすると、「俺さ、昔サンハウスと何度か一緒にライブ出たとよ。鮎川さんはシャイで優しい人やった。ギターの腕前はともかく、ステージに立つ姿に圧倒された。あんなにギターが似合う人はおらん」と熱く語った。同じく元ギタリストである夫は、「大学のときにフェスでシナロケ観て、ホテルまで追っかけてサインもらった。嫌な顔するどころか、わー、博多から来てくれたとね? ありがとう!って。鮎川さんは優しい人やけん」とうっとりした口調で語った。

彼の何がそこまで男たちを(もちろん女たちも)虜にするのだろうか。もう一度、自分の目と耳で確認しよう。

2018年2月、福岡市内のライブハウスは年季の入ったファンでいっぱいになった。だれもが飛び跳ね、歌い、踊る。ステージ上のまこちゃんは満面の笑みでギターを鳴らす。ライブが始まる瞬間まで、私は少しだけ案じていた。いくら現役とはいえ70歳だ。20年前に比べたら少しは、いやかなり衰えているかもしれない。実際に観てしまったらがっかりするかもしれない、と。ところが、そんな心配は最初の一音で吹き飛び、全力疾走のロックに脳の芯がじんじんシビれた。

それからというもの、私は夫とともにシナロケを追っかけている。

あるトークイベントでまこちゃんが言った。「ロックは生ものやけん。そのときの気分でジャーンと鳴らす。それがロックたい。間違ったらどうしようとか考えん。そんなのはロックじゃなかよ」

私は押し入れにしまい込んでいたギターを引っ張り出し、さび付いた弦を張り替えた。下手くそでもオッケーなのだ。ロックは生ものなのだ。今日のロックを鳴らすのだ! ギターにミニアンプをつなぎ、つまみをフルテンにする。キーンとノイズが響く。あわててすべてのつまみをスッと5くらいに下げる。そして1時間も弾くと飽きてギターを置く。

まこちゃんはロックに夢中になった学生時代の話をよくする。レコードを聴くためにプレーヤーのある新聞部に入ったこと。ビートルズが福岡空港に立ち寄るという噂に踊らされてバイクで見に行ったこと。修学旅行の積立金を返してもらってギターを買ったこと。筑後川近くの農家の納屋で初めてのロックバンド体験をしたこと。

田んぼが広がる真っ平らな筑後平野。私が子供のころから見続けてきたあの景色だ。風の匂いも湿度も手に取るようにわかる。彼のギターサウンドに惹かれてしまうのは、あの景色を知っているからかもしれない。

まこちゃんはまるで昨日の出来事を話すように、60年代、70年代のロックやブルースを語る。80年代のニューウェイブパンクを、博多の、そして日本のロックシーンを語る。私たちは、朴訥な語り口で授けられる極上の「ものがたり」を通して、彼を虜にしたブルースやロックを追体験するのだ。マディ・ウォーターズ、チャック・ベリー、ビートルズ、ストーンズ、ラモーンズ。白人が支配する社会で虐げられる黒人の怒り。大人社会のルールに反発する若者のエネルギー。筑後弁と博多弁と若松弁が混じった鮎川弁で語られる「ものがたり」に私たちは酔いしれ、ある者は「16歳の女子高生」に、またある者は「20歳の大学生」に戻ってしまう。だれもが「あの頃の自分」に戻るのだ。

ライブの終盤で毎回演奏する『アイ・ラブ・ユー』という曲がある。曲の出だし、まこちゃんの「せーの!」に続いて全員があらんかぎりの力と愛をこめて「アイ・ラブ・ユー!」と叫ぶ。私と夫が人生で一番たくさん「アイ・ラブ・ユー!」と伝えた相手は間違いなく鮎川誠だ。かつては怒りを表現していたロックで、今は愛を伝えている。

こうして私は人生ではじめて「会いにいける推し」を見つけた。まこちゃんは72歳になった今も激しくギターを鳴らし続けている。まこちゃんがロックする限り、どこまでもついていこう。キープ・オン・ロッキン! イェー!


*2020年11月に受講した文章講座(西南学院大学の生涯学習講座)で書いたエッセイです。オリジナル原稿は縦書きフォーマットだったため、今回、横書きフォーマットに一部表記を修正。

2021年11月29日月曜日

キミは輝いているか?

夫が30数年ぶりにステージに立った。

ことのはじまりは10月、別府で行われたシナロケのライブ会場でのことだ。会場をきょろきょろ見回していた夫が「後ろにいる人、どうも一緒にバンドやってた友達に似てる。でも、おっさんになってるから確信が持てない」と言う。「大丈夫、キミもおっさんだ。しかも、倍くらいに太ってる。むこうも確信持てずに困ってると思うから、キミから声をかけるのだ!」と背中を押す。別府は夫が大学時代を過ごした街だ。友達がいても不思議はない、つーか、前回もいたんじゃないの? ちゃんと周り見てた? はたして、バンド仲間であったようで、後ろからおっさんたちのはしゃぎ声が聞こえてきた。ライブ後、11月に開催されるサークル(軽音楽部)の同窓会ライブに出ないか?と声をかけてもらい、30数年ぶりにステージに立つことになったのだ。

それからというもの、夫は猛練習をした。家事をおろそかにして猛練習をした。私の仕事がどんなに忙しくても構うことなく猛練習をした。おかずがちょっと減った。なぜそこまで猛練習をしたかというと、普段は座って弾いているので立って弾けなくなっていたのだ。ギターを弾く人にはわかってもらえるはずだが、座って弾くのと立って弾くのでは全然違うのだ。そして、本番3日前になり、猛練習したのとは違う曲を演奏することが決定した。笑い転げる私を尻目に、さらに3日間猛練習をした。

ピークを越えたとはいえ、コロナ禍モードでの開催である。入場者数も制限された。当然、全員マスク着用だ。30数年ぶりに会う人ばかりだというのに、顔の半分は隠れている。風貌も大きく変わっている。しつこいようだが、夫は倍くらいに太っている。たいそう驚いた人もいたようだった。

夫がステージで演奏する様子を生で見るのははじめてだった。練習の甲斐もあって、なかなかよい演奏だった。私も最前列でぴょこぴょこ飛び跳ねながらバンギャの務めを果たした。もっと大きな音出せばいいのにと思ったのだが、PA側で音を絞っていたらしいのでしかたない。ステージ裏でもいろいろと楽しいことがあったようで、夫は今に至るまで終始ご機嫌だ。相変わらず、家事はおろそかなままだが。年に1回くらいライブに出ればいいのに。いや、その前にバンドを組むのが至難の業だな。

今回は、夫婦といえど、相手が輝く姿というのはなかなか見られないものだよなあと実感した。忌野清志郎が「昼間のパパは光ってる」と歌っていたけど、仕事している様子が光っている人は少数派だと思う。少なくとも、仕事をしている私はだいたい眉間にしわを寄せ、ときには怒りながらパソコンに向かっている。全然輝いていない。むしろくすみまくっている。淀んでいる。それでも、夫によると「フルマラソン走ってるときのキミはすごく楽しそうだったよ」ということなので、ほんの数回ではあれ、輝く姿を見せられたということでヨシとしよう。今後、マラソンを走ることはないだろうが。

さて、夫のライブを見て、「私も出たい!」と思った。3年後にまた同窓会ライブを開催するらしいので、なんとかして私もしれっと出られないものか。その根回しをするには、まず夫の友達の顔と名前くらい覚えなければ(そこから?)。道は遠い。肝心のギターはまるで上達しない。おそらく永遠に「ギター歴2か月」程度の腕前のままだと思う。それでも、ギター熱が再燃したので、ぼーっとしている時間があれば練習しよう。たぶん、2か月くらいすると飽きてしまうと思うけど…。


ギター熱が再燃したのと同時に、昔バンドでやった曲をYouTubeで見つけた。なにしろ、私は曲のタイトルをちゃんと覚えないので、よく探し当てたなと自分でも感心してしまった。80年代らしいポップな曲なのだが、あまりにマイナーすぎてだれも知らない。大好きな曲なのだが、この曲を再生すると今は亡きボーカルのMの声で脳内再生されてしまいとても複雑な気持ちになる。Mのことを思い出しながら、すっかり忘れてしまったソロパートの耳コピに励むとしよう。



2021年2月27日土曜日

Money, Money, Money

今回はお金の問題について書いておきたい。

父が亡くなる2週間前から実家に戻り、都合1か月実家で暮らしていたが、お金の問題は頭痛の種でもあった。家族であっても、金銭感覚は違う。それが原因でケンカすることも何度かあった。たとえば、仏壇の花。我が家はガーデニング好きの祖母、父と、自宅で花を育て、それを飾ってきた。ところが、父が入院して以来、残った人間は誰ひとりガーデニングをしない。興味もない。庭はどんどん荒れていく。仏壇に供える花は買いに行くよりほかない。仏壇だけではなく、お墓に供える花(月に3回)、自宅の前にある恵比寿さんに供える花。花だけで月に1万円近い出費になってしまうのだ。

「造花にすれば?」

猛反発を食らった。母にも弟にも猛反発を食らった。コスト意識だけでモノを言ってはいけなかった。ここは実家の価値基準に合わせることとした。

しかし、葬儀となるとかかるお金も桁が違う。祭壇の値段は飾る花によって違う。すべてが金だ。コスト意識が高い私は「一番安いやつでいいです」と言いたい。なんなら最初に「予算は香典返し込みで100万!1円たりとも超過は認めません!」と言いたい。しかし、私は喪主ではない。

そこで、祖母の葬儀の記録を見せて「これくらいでいいんじゃない? あれ、よかったやろ?」と、母と弟をできるだけ安い方の選択肢に誘導し続けた。それでも、見積額は私の予想を30万超えていた。互助会の積立金など焼け石に水だった。

次に、お寺に払うお布施問題。そう、「お布施の金額はお気持ちで~」問題だ。これも前回の葬儀でいくら払ったかを確認し、それより減額した。正当化させてもらうと、我が家は菩提寺の住職が月に2回、読経に来ている。つまり、月に2回ずーっとお布施を払っているのだ。何十年も前から。葬式だけの付き合いではないのだ。だから削った。祖母のときには30万出したけど、今回は20万にした。

ただし、七日ごとの法要でも毎週お布施を払うことはわかっていたので、長期的に見ると大きな減額ではないはずだ。私がケチであることは認める。

葬儀費用は式典そのものにかかる費用(祭壇、棺、骨壺、花、食事代など)と、葬儀後に発生する費用(香典返し)がある。コロナ禍の葬儀ということもあり、参列者は少ないのではないかと予想した。だが、この予想は外れた。70名以上の方が参列してくださった。そして困ったことに、「相場以上に包んできた人」が多かった。

後日、香典返しを送る対象となるのは1万円以上包んできた人だ。それに満たない金額であれば、当日受付で渡す返礼品(お茶など)のみとなる。普通であれば近所の人は3000円、せいぜいがところ5000円だろう。ところがである。1万包んできた人が結構いた。みんな涙を流しながら「お父さんには本当によくしてもらった」「お父さんには長年お世話になった」と言うのだ。私の頭の中では「なんということでしょう!」というナレーションとともに、ガシャンガシャン数字が増えていくのみであった。

まあ、人徳ではある。

ちなみに、いただいた香典は名前、金額、関係をスプレッドシートに入力して、金額順に並べ替えできるようにした。

こうして予想外に香典額が大きくなり、最終的な葬儀費用は170万にもなり、私は白目をむいたのだった。もちろんこれはお寺に払ったお布施は入っていない。四十九日の法要が終わるまでにかかったすべての費用を合計すると、なんということでしょう! 約210万にもなった。もちろん、地方によって冠婚葬祭費用は大きく異なるが、佐賀(特に農業関係者の多いエリア)ではこれでも少ない方だと思う。なんせ、葬儀委員長がケチだから。

さて、相続にもお金はかかる。

まず、被相続人および相続人の各種証明書の発行手数料が最終的に8000円ほどかかってしまった。中でも大きかったのが原戸籍という、生まれてから死ぬまでの戸籍だ。これは、父の戸籍をさかのぼり、父が生まれた時点に存在した戸籍まで全部が必要なのだ。これで3000円以上かかった。

何度も役所に行く手間を省くため、住民票や印鑑証明は1、2通多めに取っておいた。結果、余ってしまったので、マイナンバーカードを使ってコンビニ発行の申請も済ませておけば、ここにかかるコストを抑えられると思う。

不動産の相続に関しては、すべて司法書士に任せた。手数料も込みで登記の変更にかかった費用は約20万。義父のときもだいたいこれくらいだった。たしか、所有している不動産の評価額によって金額が異なるようだ。

金融機関の相続に関しても、行政書士だか司法書士だかに頼むとやってくれるらしい。こちらは、葬儀社の紹介レートで1口座7万円とあった。絶妙な料金設定である。

さて、こうして約230万ものお金が飛んでいってしまったのだが、ここで最大の問題は、「親の口座からお金が下ろせない問題」だ。両親のメインバンクはJAだったので、JAの担当者に電話すれば現金を自宅まで持ってきてくれる。ところが、父の口座は凍結されていて下ろせない。母のJA口座も途中で力尽きてしまった。そこに最後の入院費の請求が来た。

「じゃあ、郵便局かS銀行でおろしてきて。暗証番号はXXXXだから」と通帳を渡された。面倒なので母の口座から直接病院に振り込むことにした。

ところが、ATM画面に表示されたのは「お取り扱いできません」のエラーメッセージ。

窓口で尋ねると、高齢者の口座から一定金額を超える送金はできないらしい。要するに、オレオレ詐欺から高齢者を守るためのしくみらしい。しかも、私は本人ですらないわけで、私が母の口座から振り込みをするには、ゆうちょ銀行所定の委任状に記入のうえ、私の身元を証明する書類を提示して……と、面倒な手続きが必要だということで、私の口座から振り込んだ。

後日、自宅に来てくれたJAの担当者から、高齢者の口座からの引き出し、振り込みには限度額があること、限度額は金融機関によって異なること、葬式代だというと故人の口座からであっても緊急措置として30万まで引き出せるということを教わった。「まあでも、30万じゃお葬式出せませんよね~」とも言っていた。

懸案だった相続税については、司法書士と一緒に試算したところ非課税枠に収まっていた。準確定申告に関しては、税務署に問い合わせたところ、収入が400万に満たなければ申告の必要なしということだった。

今回の教訓。JAバンクは電話一本で家まで来てくれるので最強。口座は減らせ。タンス預金はバカにできない。

そして、葬式はまず最初に全体の予算を決めろ!


2021年2月24日水曜日

It's So 相続!

10月8日木曜日、無事に父の葬儀を終え、安堵したのもつかの間。そう、相続である。疲労困憊する私をさらにむち打つタスクが待ち構えているのだ。

10年前、祖母が亡くなったときに唯一の相続人であった父はひとりでその手続きをやった。70すぎて基本無職で時間はあるし、比較的スムーズに手続きは終わった。

それから数年後、夫の父が亡くなった。葬儀、相続すべての手続きを夫がひとりでやった。相続は、揉めた。揉めに揉めた。ほんの数十万のことで揉めた。そしてそれを私は実家で愚痴った。

あるとき、実家の自室でぼーっとしていると父と母に「ちょっとこっちに来なさい」と呼ばれた。テーブルの上には書類の山。保険証券、通帳、不動産登記簿などなど。「これはあんたに任せる。分割方法から手続きから全部、あんたに任せる」と言うではないか。いや、そうなるのはわかっていた。弟は実務能力がゼロなのだ。弟は「優しさ担当」であり、家族や親戚にあふれるほどの優しさをふりまき愛されているが、ポンコツである。今回判明したことだが、認印と実印の違いもわかっていなかった。

そうなのだ。祖母だって死ぬ10年も前に「ちょっとこっちに来なさい」と言って、私の前に同じ書類をドンと出したのだ。一家の長女は大変なのだ。

そこで、さっそく両親のメインバンクであるJAの担当者を呼び出し、全部の保険証券と通帳をチェックして、母が死んだ場合の分割方法、父が死んだ場合の分割方法をそれぞれ決めた。父からは「人が死ぬとすぐ金が必要になるから、ここに現金を用意している」と、いわゆるタンス預金のありかも教えられた。ただし、これは父が死んだときにはなくなっていた(生活費および娯楽費に消えた模様)。

今回、相続人は母(配偶者)、私(長女)、弟(長男)の3人である。相続財産は不動産(家、宅地、田)、現金(JA、S銀、ゆうちょ)、保険金。手続き関係は保険金の請求、各種加入保険の契約変更、遺族年金の手続き、固定資産税の納税者変更、公共料金等の契約変更、車の名義変更(軽自動車なのですぐ終わった)。パソコンなどは一切使えない人だったので、オンラインアカウントの類いはゼロ。

まず、葬儀翌日、弟が死亡証明書を手に市役所に向かった。佐賀市役所には「おくやみ課」という窓口があり、ここで必要な手続きをすべて教えてくれる。その後、郵便局に保険金の請求に向かったらしいが、必要書類が何もそろっていないので手続き方法を教えられ、口座が凍結されただけだった。この時点で、JA、ゆうちょの口座が凍結済みとなった。弟は週明けから仕事に戻った。すべては私に丸投げされた。予想どおりだ。

葬儀後に「明日から相続手続き始めるから、もう1週間こっちに残る」と夫に申し渡したところ、「え? 無理だって。1週間で終わるわけないって。頑張っても2週間かかるから」と言われた。なんだと?

相続手続きに当たって役所で収集した証明書類は次のとおり。

  • 父:原戸籍(生まれてから死ぬまでの戸籍)、戸籍の附票、固定資産税評価証明書
  • 母、私、弟:戸籍抄本、住民票、印鑑証明書

ちなみに発行手数料だけで5000円くらいかかった。

弟は独身で親と同居、つまり同じ戸籍なので父の原戸籍で弟の身元は確認された(ように思う)。問題は私だ。福岡まで証明書を取りに戻らねばならない。マイナンバーカードを持っていればコンビニで発行できるのだが、これには事前の手続きが必要である(しかもコンビニ発行できるようになるまで1週間くらいかかる)。結局、一度福岡に戻って証明書を集めた。現住所と本籍が違うので2つの役所に足を運ぶ羽目になった。本籍地と現住所が親の現住所と違う方は、マイナンバーカードを作ってコンビニ交付の申請も済ませておくことをおすすめしたい。わずかだが手間が省けるかもしれない。

さらに、母が実印の印鑑登録をしていなかったため、相続を進める前に母の印鑑登録という手順も必要になった。これは本人が来庁しなければできないという。そこで、車に母を乗せ、市役所で車椅子を借り、窓口に連れて行き、書類に記入させたところで、「それでは写真付きの身分証明書を出してください」と言われた。母は印鑑だけ持って出てきたのだった。

窓口の人は言った。「ご本人であることを確認する方法が2つあります。1つは、ご自宅に戻って写真付き身分証明書を持ってきていただくこと。もう一つはお母様にいくつか質問をします。そのお答えがこちらにある戸籍データと一致すればご本人であると認められます。どうなさいますか?」機内食の「Beef or Chicken?」より悩ましい二択だ。ビーフもチキンももらうことにした。

役所は家から車で5分もかからない。私は母を窓口に残し、車を飛ばして母の障害者手帳を取りに戻る。待っている間、母は窓口の人が出題する「あなたに関する質問」に答える。

約10分後、障害者手帳を持って役所に戻る。母は問題に正解できず、本人であることを認めてもらえなかったという。結婚前の本籍地住所を思い出せなかったらしい。最近は免許証にも本籍は記載されないので、高齢者でなくとも思い出せない人は多いのではないだろうか。

みなさんもこの機会に印鑑登録と本籍地住所の確認を。デジタル化がどんなに進んでも、きっと相続手続きは煩雑なままだろう。

不動産に関しては司法書士に丸投げ。必要書類を集めて渡すだけ。手続きが終わったら料金を支払うのみ。

我が家は預金の相続と保険金の請求がちょっと大変だった。JAは電話一本で担当者が自宅に来てくれるので戸籍などの証明用書類を準備し、担当者の助けを借りつつ請求用紙に記入捺印するのだが、なんせ数が多かった。父が請われるままいろんな保険に契約していたらしく、そのすべての名義人を変更することになった。

高齢の母は書類に記入するのさえ難儀する。担当者は「まあ、お名前だけ自筆で書いていただければ、あとは娘さんが代筆でもOKです」と言うので、名前だけ書かせたのだが、それでも最後は手が震えていた。

かんぽは受取人が母に指定されており、本人が郵便局窓口に来て請求せよと言う。結局、委任状を書かせて私が手続きをした。2週間ほどして保険金が振り込まれた。JAはというと翌日に振り込まれた。

預貯金の相続は残高によって手続きの煩雑さが異なるらしい。さいわい、メインバンクのJA以外は雀の涙ほどの額だったので比較的楽だったのだが、相続するのが弟だったため、後日1日有休を取って銀行を回った。

年金の手続き(母が受け取る遺族年金)も少々手間がかかった。まず、社会保険事務所に電話をして記入が必要な書類を送ってもらう。社会保険事務所の手続きは予約制で、ASAPで予約が取れたのが1週間後だった。その間、戸籍だか住民票だか証明書を準備して、送られてきた書類に記入する。1週間後に必要書類を抱えて社会保険事務所の窓口に向かった。

「午後4時の予約なんですが」

「お名前は?」

「●●(現姓)です」

「えーっと、そのお名前のご予約はございません。予約日時に間違いはないですか?」

「……あ……▲▲(旧姓)で予約入ってます?」

「はい、あります」

「それです」

今回、このやりとりを幾度となくやった。そして、福岡に戻ってきてからは名前を聞かれると必ずと言っていいほど旧姓を答えてしまい、相手を戸惑わせた。

公共料金などの契約人変更は全部電話で連絡して書類を送ってもらい、弟に記入させて返送することに。こうしてほぼすべての手続きが終了したのが夫の言葉どおり2週間後だった。「じゃあ、明日福岡に帰るから」と言った矢先に弟が言った。

「ねえ、お墓にお父さんの戒名彫るのはどうすると?」




2021年2月23日火曜日

葬送狂騒曲

2020年10月6日、父が死んだ。2016年10月に肺がん&間質性肺炎と診断されてからちょうど4年だった。内視鏡手術で病変部を切除し、半年後にリンパ節に転移が見つかり、2種類の抗がん剤治療を受けたのだが、生きながらえることはできなかった。あらためて当時のブログを見返してみると、最初の診断時に「手術をしなければあと5年は難しい、手術をすれば10年は生きられる」と言われていた。結果だけ見ると、手術してもしなくても変わらなかったんじゃん?とやさぐれた気持ちにもなる。父本人は希望を失わず果敢に治療を受けていたわけだが、内心どう感じていたのだろう? 今となっては知るよしもない。

ざっくりとした流れはこんな感じだ(抗がん剤が効かなくなったあたりはうろ覚え)。

  • 2016年10月 肺がん&間質性肺炎と診断される
  • 同年12月 内視鏡手術で肺を部分摘出
  • 2017年8月 リンパ節に転移が見つかったため抗がん剤治療を開始
  • 同年9月 抗がん剤によりがんが縮小する
  • 2018年 縮小していたがんが大きくなり別の抗がん剤を使うが効果出ず
  • 2019年 積極的な治療をやめると父が宣言
  • 同年11月 がんによる症状(嗄声)が出始める
  • 2020年7月 目に見えて食欲が落ち始める
  • 同年8月 肺炎で入院、24時間酸素吸入開始
  • 同年9月はじめ 退院、酸素ボンベを引き自分で運転して理髪店へ行く
  • 同年9月はじめ 大型台風に備え、弟が庭の片付けをするのを作業着姿で監督
  • 同年9月10日 再び肺の状態が悪化して入院、医師から長くないと告げられる
  • 同年9月20日 私、実家に戻る
  • 同年9月26日 自宅に一時帰宅(数時間のみ)、親しい親戚に会わせる
  • 同年10月3日 鎮静開始
  • 同年10月5日 電話で会話
  • 同年10月6日未明 死亡


なんとなくおわかりいただけるかと思うが、死ぬ1か月前まで元気だった。もともと太っていたため、食欲が衰えてからも動き回るだけの力は残っていた。死ぬ前日も電話で普通に話ができたので、急に逝ったなあという印象だけが残った。

さて、病院から自宅に父を連れて帰ってきてからが葬儀委員長としての私の本番である。10年前に祖母の葬儀でだいたいの要領をつかんでいたとはいえ、コロナ禍である。「家族葬でいいんじゃない?」という緊縮派の私に対し、「みんなで送ってあげたい」と泣き崩れる保守派の母。葬儀社の担当者いわく「こういうご時世ですし、都会では家族葬とか一日葬とか簡略化の方向に進んでるんですけど、佐賀はちょっと無理なんですよ。家族葬にするからって言っても来ちゃうんです。近所の人とか、会社の人とか。止められないんですよ。だから、広い会場で椅子の間隔を空けて対処してます」だと。

結局、従来どおりの葬儀進行が決定。弔問客の受付開始時刻を繰り上げて、できるだけ密を避けること、手指消毒とマスクの着用をお願いすることとなった。

通夜・葬儀については、母の希望を最大限に受け入れることとなった。事前に夫から「お義父さんのお葬式はお義母さんのためにやるのであって、君のためではない。お義母さんの希望を優先してあげた方がいい」と釘を刺されていたからだ。

ちなみに見積もりの段階で予想(祖母の葬儀費用を元に算出)を30万ほど超えていた。

喪主は母だが、実際に仕切るのは長女である私だ。とはいえ、長男である弟にも情報共有が必要だ。そこで、クラウドを利用してリアルタイムな情報共有を行うこととした。通夜・告別式で使う写真などはGoogleドライブに入れること、スプレッドシートで出費を管理することなどを決めた。決めたはいいが、おそらく私が全部やることになるのだろうなとも察した。

打ち合わせを終えるとスライドショー用の写真選定に取りかかる。これはある意味楽しい作業だった。準備がいい人なら、元気なうちにスライドショーの写真を用意することもあるだろう。私もそうするかもしれない。でも、遺族が写真を選ぶことに意味があるのかもしれない。弟は父と写った写真が少ないことに愚痴を言いながら「そういえば幼稚園でさ~」と思い出を語る。私は父と一緒の写真を見て「お父さんの子守は毎回グダグダでばあちゃんに怒られてたね」と当時を思い出して苦笑する。夜遅くまで家族や親戚と笑い転げたり、父に話しかけたりしながら写真を選んだ。

棺には運転免許証と電気工事士の免許証、作業着、大福やどら焼きを山ほど入れてあげた。あの世でも働かせる気満々である。

コロナ禍ということもあり、通夜・葬儀ともに子供の参列は控えてもらった。私も弟も子供がいないが、親戚はどういうわけか子だくさんである。そこで、子どもがいる家庭は父と血がつながっている者だけが短時間だけ弔問に訪れるだけでよし、なんなら来なくてもいいと伝えておいた。

そういうわけで、親族の参列者はこれまでで一番少なかったのだが、予想に反して親族以外の参列者が多かった。他の地域ではどうか知らないが、佐賀ではまだ新聞のおくやみ覧に掲載する人が多い。これは、葬儀後にだらだらと自宅に弔問に来られては面倒だから、新聞で周知して弔問客を一気にさばいてしまおうという意図である。また、近日中に自宅の電気工事をする予定だったので、父の元職場にも連絡を入れた。新聞を見た近所の人、父と一緒に働いていた人がたくさん参列してくださった。

職場での父は、家庭での父とはまったく別人だった。家では穏やかで、頼りなく、声を荒げることは一度もなかった。会社ではその逆である。鬼のように厳しかったらしい。父の忘れ物を届けに現場に行ったことがあるのだが、ものすごく怒鳴っている人がいて、それが父だとわかったときの驚きは今でも覚えている。

葬儀では家族でさえ知らない一面を垣間見ることができる。家族葬だったら、職場での父の様子を知らないままだったかもしれない。

火葬場にいく親戚はごく近い親戚だけ10数名。火葬後にお寺で三日参り、葬儀場経営のレストランで食事会をして散会とした。

葬儀が終わってもそこで終わりではない。四十九日まで七日毎の法要があるのだ。今回、私はこれを簡略化しようと目論んでいた。そこで、「コロナ禍だし、初七日と四十九日以外は来なくていいよ!」と言った。ところが、「そんなこと言わずに来させてほしい。食事も何もいらないから。お茶だって自分で持ってくるから」と食い下がられ、ごくごく近い身内だけ来てもらうこととなった。おかげで、私も毎週、福岡と佐賀を往復することに。

大牟田出身の母は「大牟田ではさあ、葬式の後で親戚が来るのは初七日と四十九日だけよ。こんなに毎週来ないのに」と愚痴っていた。祖母の葬式のときも同じように愚痴っていた。「大丈夫。お母さんのときは、もっと簡素にするからね」と約束した。何度目かの法事で母が突然、夫に向かって素っ頓狂なことを言い出した。「次の法事、あなた来なくていいから。そしたら、親戚に来なくていいって言いやすい」と。それを言われた夫は、「えー! 長女の婿が来ないなんて、ちょっとマズくないですか? やだなあ、陰口言われるじゃないですか!」簡略化の企みはもろくも崩れた。

四十九日も近い親戚だけで執り行ったとはいえ、手間もお金もそこそこかかった。

最終的にかかった費用は予想を70万ほど超えてしまった。それでも、母が納得して父を送ることができたのでこれでよかった。


父と私

私が思い浮かべる「お父さん」に一番近い


2021年2月22日月曜日

検査入院をしてきた

 2018年の冬に人間ドックを受けたときに、物忘れがひどくなっていたので脳ドックも追加した。後日、「動脈瘤の疑いあり、要精密検査」という結果が届いた。精密検査を受けると、2.5mmほどの動脈瘤と疑われる瘤のようなものがあるが確定はできない。確定には1泊入院で血管造影検査が必要。通常、この大きさであれば破裂する可能性は1%にも満たないため、年に1回のMRI検査を推奨するという。祖母に脳梗塞、父にくも膜下出血、狭心症の病歴があったため私自身も「高リスク」と判断され、半年に1回のMRI検査をすすめられた。

破裂をする前に処置してしまいたいという人はもちろん手術を受けることも可能。保険適用となるのは5mm以上の動脈瘤(2020年以前はもう少し基準が厳しかったらしい)。それに満たないものは全額自己負担となり、その費用は約140万円らしい。

実は、精密検査を受ける前にかかりつけの病院で「この前、脳ドックで2mmくらいの動脈瘤のようなものが見つかったんですけど、このくらいの年になったらみんなちっちゃい動脈瘤のひとつやふたつありますよね?」と言ったら、「ありませんよっ!すぐ脳外科行って!今日、この後すぐに予約して!」と怒られた。脳ドックの「要精密検査」をスルーしてはいけないと学んだ。

2021年1月の定期検査で「うーん。ちょっとね、瘤の形が変わってるんですよ。大きさも4mmくらいになってるし。一度、血管造影できちんと調べませんか?」と説得されて、「じゃあ、折れた腕がもう少し回復してから」と1か月後に入院を予約。担当医には「大丈夫。痛くないですよ。ただね、検査の後、止血のために3時間ベッドに寝たきりになるのがつらいって皆さんおっしゃいますけどね」と優しく励まされた。最近の医者は本当に優しい。あと、本当に痛くないのだろうか?

コロナ禍ということで、入院前に全員のPCR検査を行っているそうで、200円ほどで検査を受けられた。入院当日まで外出を極力自粛すること、毎日検温して記録することを言いつけられた。「パジャマやタオルは衛生管理のため病院で用意しますから持ち込まないでください」とも言われた。洗面セットも販売しているらしく、おそらく「手ぶらで入院」も可能ではないだろうか。ただし、いまだに保証人は必要。印鑑は不要。この点については、たとえばクレジットカードを入院時に提示しておくとか、デポジットを払うとかで保証人なしにできるのではないだろうか。

ようやくネットでカテーテルを使った血管造影検査について調べる。父が抗がん剤治療をしているときに何度も受けていたが、完全に「他人事」だったので父がどういう感想を漏らしていたかも覚えていない。確か「お父さんは血液さらさらのお薬飲んでるから、止血に時間がかかるんですよ」と看護師さんに言われた気がする。痛さとつらさについては確かな情報が得られず恐怖が募る。

土曜日午前中に入院、午後検査、翌朝退院。直前の説明でリアルなイラストが載った説明を渡される。「多少は痛いです。麻酔をブスッと注射するわけですし。でもその後の3時間の方がつらいと思いますよ」と言われる。検査を担当する若いイケメン医師は渋い表情の私を「うふふ。大丈夫ですよ」と笑顔で励ましてくれた。


ストレッチャーで検査室に運ばれ、バイタル監視用の器具を装着される。点滴のラインから鎮静剤を投与される。ビール大瓶1本飲んだくらいのいい気分になる。「ぼんやりしてきました?」「は~…」「あれ?意識ありますね。お酒強いですか?」「ええ」「あ~、じゃあ効かないですね。でも、鎮静剤追加すると危ないからこのまま麻酔打ちます」と。針が刺さった瞬間から2秒くらい痛かった。「ひっ!……あ、もう大丈夫です」という感じ。

2分ほど麻酔が効くのを待ってカテーテル挿入開始。痛みも圧迫感も何も感じない。次の難関は造影剤が注入される瞬間だとネットで読んだ。頭がズキズキ痛む人がいるらしい。さいわい頭痛はなく、視界がスパークしただけだった(誇張でもなんでもなく、火花のようにスパークして「おお~すご~い!」と声を上げた)。左右の脳の血管を撮影し、止血処置を施して1時間弱で検査は終了、病室へ運ばれ3時間の安静を命じられる。腕と左足は動かしてもいい。上体起こすの禁止。寝返り禁止。

ほどなく吐き気とめまいに襲われる。枕元に本、スマホ、Kindle、タブレットを用意していたものの、気持ち悪くて目も開けられない。1時間様子を見ても収まらなかったため吐き気止めを投与してもらう。さらに1時間後、吐き気とめまいは半減。さらに1時間後、止血のための重しを外して体を起こす。食事が運ばれてくる。吐き気が2割ほど残っていて味が濃いもの匂いが強いものは食べられなかった。つわりって大変なんだろうなと妊婦のみなさんに思いを馳せた。吐き気が消えたのは検査終了から4時間ほどたってから。トイレの問題は発生しなかったので、それだけは安堵した。

これまでに何度か手術を受けているが、全身、局所関係なく、麻酔が切れた後にほぼ毎回ひどい吐き気に襲われる。10年前に手術したときは翌朝まで水1滴たりと受け付けなかったので、それに比べると今回の吐き気はどうということはない。このように「これまでで一番の痛みや苦しみ」と比べれば、まあだいたいのことは大丈夫かなという気がする。ちなみに一番の痛みは開腹手術の後の痛み、2番目は腕を折ったときの痛み(先月)である。

翌朝、最後の血液検査(足から採血されたので今回の検査ではこれが一番痛かったし、針を刺されたところは24時間以上経った今もまだ痛い)、傷の確認後、退院手続き。迎えに来た夫が同席して検査結果の説明を聞く。「経過観察してきた右側の動脈瘤ですけど、これ、動脈瘤ですらなかったです。これは破裂する可能性ありませんからね。安心してくださいね。で~、左側なんですけどね。こっちに小さな瘤があってですね、これは動脈瘤かもしれないです。だから、引き続き半年に1回MRIで検査しましょうね。でも、3mmくらいだから今は破裂の心配はいらないですよ」と。なんだよ、まだ続くのかよ……。

検査中に医師との会話の中で、父が30年近く前にくも膜下出血で生死の境をさまよった話をしたら、「今は、くも膜下出血でも開頭することってあんまりないんですよ。カテーテル手術で治療できますから、入院も数日ですしね」と言われた。医療技術の進歩はすごいなと実感した。入院している人も比較的若い人が多く、大事に至る前に手術できた人も多いのだろう。ところで、私は検査中ずっと医師と会話をしていたのだが、彼はお喋りしながらカテーテルを通せるわけで、それもすごいなと感心した。私は会話をしながら翻訳はできない。

今回、期せずしてコロナ禍の入院を1日体験したわけだ。事前のPCR検査はもちろんだが、入院中ベッドの周りのカーテンは常に閉じられていたし、その外に出るときはマスク必須だった。検査中はマスクしてなかったけど、大丈夫だったのかな? まあ、陰性の人しか入院してないわけだけど。コミュ障なので個室を希望したところ、「感染症が発生したときのために個室を確保しているので、みなさん大部屋にしか入れません」と言われた。物音対策は耳栓を持参した。4人部屋に泊まったが、会話をしている人は皆無だった。こういう環境に何週間も入院することになると、精神的にまいってしまう人も多いと思った。この病院は総合病院ではなく、脳の専門病院なので感染症疑いの患者はまずいないと思われる。それでも、病院スタッフの負担は明らかに増えていたはず。医療関係者の負担が早く、少しでも減ることを願ってやまない。

今回の検査にかかった費用はPCR検査の費用も込みで約4万円。年2回のMRI検査は7000円弱。高いとみるか安いとみるか。ちなみに最初に人間ドッグのオプションで追加した脳ドックは約2万円だった。私は病気については、わりと慎重なスタンスなので医療費がかさみがちである。極論かもしれないが、コスト面を考えると放置しておくという選択肢もあるわけで、実際に何度かそれを考えたこともあった。「鈍器で殴られたような頭痛」が起きたときに救急車を呼べばいいのだから。それでもやっぱり、「このまま放置すると死ぬような目に遭うかも」という不安はできるだけ排除しておきたい。ぽっくり死ぬのは全然かまわないけど。


ところで、最初に脳ドックを受けるきっかけとなった物忘れについてだが、「加齢のせい」という旨をもっとオブラートに包んで言われた。