2018年2月25日日曜日

新世界に行ってきた

シナロケのライブから1週間も経たぬうちに、またもやライブ…じゃない、コンサート。
今回は、読売交響管弦楽団(指揮:ユーリ・テルミカーノフ)だ
クラシック初心者の私は、当然のように読売交響管弦楽団もテルミカーノフも知らない。
昨年の11月に行ったロシア国立交響楽団のチャイコフスキーに感激して、年に2回くらいクラシックを生で聴きたいと思ったのがきっかけだ。
できれば音が大きな交響曲がいい。
知らない作曲家だと予習が大変なので、小学校や中学校で習った(聴いた)作曲家がいい。
バンド…じゃない、オケはどこでもいい。
年に複数回行きたいので、チケットがお手ごろ価格であることも重要(ちなみに席は後方の席で全然構わない)。

アクロス福岡のウェブサイトでほどよい感じの公演を探し、上記の条件を満たしたのが今回の読売交響管弦楽団(読響)の公演だ。

  演目
  グリンカ 歌劇「ルスランとリュミドラ」序曲
  ポロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲 第2番(ソリスト:レティシア・モレノ)
  ドヴォルザーク 交響曲 第9番「新世界から」
  アンコール
  ブラームス ハンガリー舞曲 第1番

本格的クラシックコンサートは2回目なのだが、やはり今回も観客が高齢者ばかりだ。
もちろん、若い人もチラホラいるのだけど、とにかく高齢者が多い。
アクロス福岡は音響こそいいのだが、シート間隔が狭く、高齢者には少し厳しめのホールだ。
ここにいる高齢者が死んじゃった後は、一体誰が文化を支えるのだろう?と憂いすら感じた。

さて、演奏はというと、オープニングの「ルスランとリュドミラ」のテンポの速さにちょっと驚いた。
指揮者が違うだけでここまで印象が変わるなんて、クラシックファンには当たり前のことかもしれないが、初心者の私にはビックリだった。
まあ、ロックでもバンドが違えば同じ曲でもまったく別物だから、落ち着いて考えればわかることだが。
「ルスランとリュドミラ」は勢いがあって大好きな曲だ。
「さあ、お楽しみのコンサートが始まるよー!」というかけ声みたいでとても楽しかった。

2曲目のプロコフィエフ、初耳の作曲家だ。
予習はしたのだが、まず「プロコフィエフ」という名前が覚えられない。
「なんだったっけ?プロトコル…みたいな感じの名前だよ」と当日まで覚えられず。
ソリストのレティシア・モレノはおそらく若い女性で(1階後方の席なのでよく見えず)、よく動くタイプの陽気な音を奏でるバイオリニストだった。
途中で弦が切れたのだけど、コンマスがバイオリンをサッとバイオリンを渡すのを見てちょっと感激した。
生で「バイオリン交換」を見られるとは思っていなかったのでトクした気分になった。

さて、ドボルザークだ。
一言で感想を言うと、「超かっこよかった」だ(ものすごくバカっぽい感想だ)。
金管楽器がパワフルで、最高にロックだった(クラシックだけど)。
コントラバスも8人編成で、低音が効いているのも素晴らしかった。
読響の大ファンになってしまった。

第1楽章の出だし、鳥肌が立った。
港から大海原へと出て行く帆船が見えた(気がした)。
一瞬で小・中学校で習った音楽や美術の記憶が、まるで桜島の噴火のように噴き出してきた。
歴史の教科書で見たサンタマリア号(時代が全然違う)。
高層ビルができる前のマンハッタン。
ヨーロッパから夢を抱いて渡ってきた人たちと荒々しいアメリカの自然。
遠い昔にぼんやりと耳にした音、目にした絵。
その記憶にオーケストラの音が重なり、音がキラキラ光る粒になって降り注ぐ。
あの退屈な音楽の授業や美術の授業がなければ、この喜びはなかったのだ。
チケットを買ってホールに来なければ、あの退屈な授業は退屈な記憶のまま、私を揺さぶることはなかったのだ。
自分も帆船に乗っている気分で、馬車に揺られている気分で、だだっ広い大陸の水平線を見ている気分で、音に身を任せる至福のひとときだった。

アンコールのハンガリー舞曲はとても華やかだった。
舞踏会で踊る貴族の姿が見えるようだった。
さすが、ブラームスだ。


気になったので確認したところ、「新世界から」の初演は1893年。
おそらく演奏中に脳内で思い描いたアメリカよりは格段に近代的であったはず。
ちなみに私が思い描いていたアメリカは『バック・トゥ・ザ・フューチャー Part2』でドクがタイムスリップした頃のアメリカだ。