2016年8月16日火曜日

母、がんになる その1

母ががんになるという予想外の事態が発生したので、高齢者の介護やがん治療などを考える上で備忘録として記録していこうと思う。

母について
1937年生まれ、現在79歳。福岡県大牟田市出身。元スモーカー(ヘビーではない)。

5月中旬、かかりつけの病院で定期的に健康診断を受けて、肺のX線写真に小さな影が認められる。佐賀大学医学部付属病院(以下「医大」)を紹介され5月下旬受診。CTでも陰影が認められる。この時に担当医から私に電話がかかってきて、直接説明したいということで両親と一緒に後日医大へ。

担当医からの説明
がんとは確定できない。画像診断でがんと確定できるのは肝臓がんだけで、その他のがんは実際に組織を調べなければ確定できない。この時点でがんが疑われる細胞の大きさは2センチ未満。仮にがんであったとしても初期の原発性肺がんであり、内視鏡による区域切除で切除できる。がんの悪性度が低ければそこで治療終了。検索キーワード「GMM」、「すりガラス状陰影」、「原発性肺がん」、「早期肺がん」、「区域切除」で調べると情報を見つけやすいからとメモをもらう。

母本人に自覚症状は皆無。そのため手術を受けることを渋るものの、早期発見で内視鏡で切除できるのであればその方が長い目で見て負担が軽いのではないか?ということで、担当医、父、私ともに手術を勧め、母の誕生日である7月8日に手術を受けることが決定。本人最後まで渋っていたものの、「これっきりで終わるのなら仕方ないね」と了承。

高齢者の場合、子供がいれば必ず子供が同席する、子供がいない場合は患者より若年の人間が同席して担当医からの説明を受けることになっているらしい。「天涯孤独な人はどうするのか?」と質問したら、「地域の民生委員やお友達でもいいんですよ」とのこと。高齢者の理解力が怪しいからというより、どちらかというと「冷静な証人としての役割」を担ってもらうのだという話だが、「高齢者の理解力が不確かなため」だと今も思っている。


母は福岡県大牟田市出身なのだが、母が住んでいた頃の大牟田といえば炭鉱が基幹産業で非常に景気が良く、活気ある街だったらしい。ただ、戦時中は軍需工場や炭鉱が空襲の標的となっていたため、焼夷弾が自宅の屋根を突き破って落ちてくる、空襲警報がなると防空壕に避難するのが日常的になっていたらしい。雨で浸水した防空壕で一晩過ごし肺炎になり、生死の境をさまよったこともあるらしく、健康診断ではよく肺のX線写真に影が映ると本人が話していた。また、私の個人的な疑問として、大牟田市は高度成長期には北九州と並んで公害が深刻な問題であったこと、母が元スモーカーであったこととの因果関係は不明だが、果たしてゼロと言えるのだろうか?ただ、それを知ったところで現状は変わらないので担当医に質問もしていない。

本人が最後まで渋っていたことに関し、これは後に家族全員が一時的に激しく後悔することににもなるのだが、まず手術を受けることを私は積極的に勧めた。その理由は、内視鏡で切除できる程度の大きさで早期であること。私自身が子宮頸がんの検査で見つかった高度異形成(初期がんの1つ前の段階)を切除し(実際に手術を受けるまで4年ほど経過観察)、その手術が1週間程度の入院で済み、がんのリスクから解放されたこと。しかも、ほぼ痛みらしい痛みがなかったこと。この2つの理由で手術を勧めたのだが、私の中では明確に基準があって、80歳を過ぎたら体に負担が大きな手術は受けさせない、抗がん剤や放射線治療が必要になっても受けさせない。経鼻チューブや胃瘻での栄養補給は受けさせない。さらにこの基準については祖母の介護を通して母と話し合い、母の希望を反映させたものである。決して私がケチだからとか、母とあまり仲良しじゃないからという理由ではない。

今回手術を受けるよう説得したのは、母は79歳で早期発見であったことが大きかった。

ちなみに、手術を受けた本人の母は「自覚症状もなかったのに、あんな辛い目に遭うんだったら手術なんてするんじゃなかった!」と酷く後悔しているし、行き場のない怒りのようなものがある様子。

ここまでの大きな反省点は、早期がんの手術であってももっと情報を収集して話し合いの時間を持つべきだった。最終的な判断は本人の希望を第一にすべきであったの2点。