かくして、去る7月8日、母は肺がんとおぼしき部位を内視鏡を使って切除するための手術を受けた。手術の3日前に入院し、同室の方とも仲良くなっていたのだが、本人は内心「できることなら手術したくない」という思いを抱き続けていた様子。その一方で、早期発見により短期間の入院で寛解した人の例を間近で見聞きしたことで若干前向きになってもいた。
手術当日は福岡にいる叔母夫婦も駆けつけてくれて、賑やかに送り出した。ここまでは全員「ちょっと切るだけだから、まあ明日にはケロリとしているだろう」と非常に楽観的だった。
手術は全身麻酔で行われ、手術中は人工心肺を使用して本人の心臓と肺は止めるらしい。肺の一部を切除するため肺が動いていては正確な切除ができないということに加え、がんと思われる細胞が「フワフワ」したものでキャッチしにくいため肺の空気を抜いて平らにしてから切除するらしい。胸と背中に合計3か所、それぞれ2センチほど切開してカメラやメスなどの機器を挿入する。術後は胸腔内に溜まった血液や水を抜くためのドレーン(管)を留置する。食事は当日夕食から可能。翌日からは体を動かし、できればトイレも自分で行くことを目指すという。私が子宮頸部の切除手術を受けた時もほぼ同様のスケジュールだったので、「まあ、そんなもんだよね」と母も納得していた。気がかりなのは全身麻酔の覚醒後にどの程度吐き気がするか?くらいで。ちなみに、私は麻酔の種類にかかわらずほぼ確実に覚醒した後は吐き続ける。この体質が母似だとしたら母もそうだろうと予想した。
予定通りに午後1時に手術は始まった。予定では午後4時ごろまでということだったが、実際に終わったのは午後5時過ぎ。まず、予定していたセグメントを切除した後に簡易検査を行い、がん細胞であることが確定した。そこで、「念のために」周辺部も切除したという。区域切除から部分切除へとグレードアップしたというわけだ。
母のがん細胞は右肺の下葉の一番下のあたりに位置していた。高齢ということもあり、下葉部を全て切除することは避けた(切除後の肺活量低下によるQOL低下を防ぐため)。手術室から個室へと移動したものの、案の定吐き気が酷い様子。おまけに痛みが尋常じゃない。呼吸するたびに動く臓器の一部を切り取ったのだから痛いのは当たり前だとしても、術前の説明から考えても想定をはるかに上回る痛がり方。どちらかというと痛みには強い方だと思っていたが、座薬を入れても全く効いている気配がない。痛いわ、吐き気はするわ、体を動かすと激痛、呼吸すると激痛と踏んだり蹴ったりの状態に。術前はまったく自覚症状がなく平穏な生活を送っていたのだ。それなのに、ほんの数時間で地獄の苦しみに苛まれている。
本来であれば術後はICUに入るはずだったが、ICUに空きがなくナースステーション近くの個室で回復まで過ごすことになった母。母の希望で病室に泊まることになった私はというと、午後5時を過ぎていたため簡易ベッドを借りることができず、ダイニングチェアを借りてベッド代わりにした。食事は病院内のコンビニで弁当を買った。
痛がる母に何をしてやれるのか?何もない。ただナースコールをして「痛がってますけどぉ」と伝えるのみ。座薬も注射も無制限に投与できるはずもなく、「あと4時間は打てないんですよ」とか、「次は午後11時ごろです」とか言われるだけ。呼吸した時に胸郭が膨らむのを抑えるためにベルトで締めつけてもあまり効果がない。痛みでジタバタするとベルトがずれて傷にあたり、また別の痛みで騒ぎ始める。
とうとう深夜近くになり、付き添っている私のぐったり加減を見た執刀医(若い女性だったので研修医かな?)が「これで痛みが止まるとおもいます」と意を決した顔で注射器を持ってきた。確かに痛みは和らいだようだったが、その後の吐き気がさらに酷くなった。女性執刀医の話では「これ、麻薬指定の薬なので副作用が酷いんです。あと、これは最後の手段なのでこれより強い薬はありませんし、この薬はもう使えません」と。
先に言えよ!打つ前に言えよ!と、ちょっとイラっとした。
翌朝、痛みは若干和らいだものの酷い吐き気と頭痛で目も開けられない状態。痛み止めを経口投与しようにも水すら受け付けない。水を飲み込んでもすぐに吐き気がするので飲むのを拒否する。このあたりから私はイライラし始めた。私は元々薄情なタイプだし、母とはいろいろと微妙な関係だったため突然看病する羽目になって「嫌だなあ」という気持ちの方が強く、「何とかしてあげたい」という気持ちになれなかった。母にしてもそういう私の苛立ちを察しているため、痛さや薬の副作用に加え娘に対するもどかしさもあって相当苛立ちを感じたと思う。
痛みと吐き気で苦しむ母に「お母さん!再発したらどうすんの?手術する?治療受ける?」と聞いたら「絶対にイヤ!」と言った。これに関しては先日も「もう二度とあんなのはイヤだ」と言っていた。
医者は自分が体験したわけではないので、「痛みはコントロールできる」と思っている節があった。痛みや薬に対する副作用は個人差が大きいので、最悪のケースを想定した上でどのような対応をしてもらえるのか事前の確認が必要だった。何度目かの痛み止めの投与時にふと思ったのだけど、もちろんカルテに逐一処置を記載しているとはいえ、付き添っているのであればその間のログを取ることも後々役に立つのかもしれない。例えば、点滴や薬を写メって画像データでEvernoteなどに保存して投与時間や投与後の反応などをメモしておくといいのかもしれない。ただ、「そこまでするか?」という気持ちも同時にあって、私の中でもちょっとした葛藤の連続だった。
たった、一晩で根を上げた私は父に電話して「お父さんが泊まってよ!」と、これまた高齢の父に付き添いを押し付けた。
実家で弟と二人で食事をしながら、「手術受けさせない方がよかったんじゃないか?」とか「他の選択肢を検討した方がよかったんじゃないか?」とか、今後再発や転移があった場合どうすればいいのか?を話し合ったが、もちろん結論は出なかった。
当初の予定よりすべてが1日遅れの回復だったのだけど、術後2日目にしてようやく食事を取れる状態になった母は、「ご迷惑をおかけしましたねー」と電話口で力なく言った。術後1週間ほどで退院できたものの、いまだに食欲がなく、手術を受けたことを悔やみ続けている。そして、その姿を見る家族もまた手術を受けさせたことを悔やみ続けることになってしまった。先日、生検の結果を聞きに行って、「腫瘍マーカーに気になる点があるのでもう一度CT撮って、腫瘍マーカーをもう一度調べましょう」と言われたらしい。ただ、毎度のことだが高齢者からの伝聞情報は劣化する。100%正確に伝わった試しがない。次回の診察日は仕事は休みにして私も同行することにした。もちろん、いろんなサイトで情報を集めている。緩和ケアも含めて。
保険の給付金請求のために書いてもらった診断書に「進行性肺がん」と書いてあったらしく、母は気丈に振舞ってはいるものの意気消沈している。とはいえ、私の目で診断書を見たわけではないので、小細胞がんなのか非小細胞がんなのかも不明。しかも、来週は父が心臓の定期検査で一泊入院するらしく、検査結果を聞きに来てくれと言う。詳細を問い詰めると、結局その日一日中「家族の誰か」の付き添いが必要らしい。
母は今回のことがあり、「涼しくなったら遺影用の写真を撮りたい」とか「今まであんたにずっと洋服を捨てろって言われてたけど、やっと捨てる気になったよ」とか殊勝なことを言い始めた。私は母との間の微妙な距離感が縮まることもなく、いまだに「嫌だなあ」と心のどこかで思っている。