2016年11月24日木曜日

父、がんになる その3

去る11月22日、早朝から車を運転して佐賀の実家に帰り、弟の車で家族揃って佐賀県立医療センター好生館へ向かった。

ところで、うちでは家族全員で出かける時に弟の車で弟に運転させることが常態化している。昔は免許を持っている3人(父、私、弟)がじゃんけんで決めるか、免許を持っていない権力者(祖母)が運転手を指名していたが、最近は弟、もしくは「婿殿(酒好きではない)」が運転手を務める。そして、両親と私は車が停止する前にシートベルトを外して弟の車のアラームをガンガン鳴らして毎回文句を言われる。今回も病院入り口の数十メートル手前で弟を除く全員が一斉にシートベルトを外したために、弟の北欧車のアラームがけたたましく鳴って(国産車よりうるさい)、「なんでもう!あとちょっとの辛抱やん?なんで全員でせかせかする?!」と注意された。

最初に循環器科で狭心症の定期検査を受け、呼吸器外科の診察(病状と手術を含む治療の説明)の流れだったのだが、移転して間もない新しい病院なのにとにかく狭い。さして広くない廊下にベンチを並べて待合スペースにしているので、車椅子がすれ違おうとしても離合できない。普段車椅子を押すことに慣れていない私(全員慣れていないのだが)が脚の悪い母を乗せた車椅子を押しつつ、あちこちにぶつけながらバックのまま雑に動き回るわけだから、母が途中で「やっぱり来るんじゃなかった」と愚痴り始めた。

循環器科の診察にも家族全員で参加して、手術に心臓が耐えられるかを聞いた。心臓は大丈夫なのだが、診察の数日前に脚立から転落した時につくった脚の擦過傷が化膿しているので、膿を出さないと危なくて手術はできないらしい。脚立に登って(しかも最上段)落ちたことといい、家に消毒薬を常備していないことといい、かかりつけの病院でいろいろと突っ込まれたらしいが。

呼吸器外科では若い女性の担当医がいきなり椅子から立ち上がると「先日は配慮が足りず申し訳ありませんでした」と頭を下げて謝罪した。両親も弟もキョトーンとしていたのだが、その謝罪は明らかに私に向けられている。私は意外にもさほど根に持つタイプでもないので、さらっと受け流して改めて担当医の説明を聞いた。


要点を箇条書きにしてみる。


  • ほぼ間違いなく肺がんであるだけでなく、腫瘍マーカーの数値から判断するとステージIの割に進行が早い
  • そのため手術は年内に、できるだけ早く受けた方がいい
  • 間質性肺炎があることは確実だが、幸い初期の段階である
  • ただし、間質性肺炎が増悪する可能性があるので、抗がん剤と放射線は選択肢から外れる
  • 外科手術で区域切除をした場合、再発した時に再度外科手術をするのは年齢的に負担が大きいので、左肺上葉部をすべて摘出してリスクを減らす
  • 切除後に残った肺がすでに間質性肺炎により機能が低下しているので、肺機能は正常時の40%程度にまで低下する見込み(現時点で70%程度)
  • 術中に間質性肺炎が増悪する可能性は10%程度、そのうち死に至る確率は50%弱
  • 単純な確率だけでは、原発性の肺がん(初期)の術中の死亡率の10倍
  • とはいえ、肺がんと間質性肺炎を併発している患者の中ではリスクが低い方である(両方とも初期であることと、本人に体力があることから)
  • 手術をしない場合の余命は5年未満と予想される
  • 手術をして、間質性肺炎の進行を遅らせる治療をした場合、他に重篤な疾患がなければ寿命を全うできる可能性は高い
  • 日常生活は酸素ボンベ無しでも問題なく送れる見込みである

というようなことを淡々と説明された。あまりに淡々とした、若干自信なさげな口調なので「やる気あるのかな?」と思ってしまった。たまにこういう淡々とした口調の医師を見るのだが、過剰に明るくする必要はないが病人というのは多かれ少なかれ不安を抱えているのだし、もうちょっと話し方を考えた方がいいと思った。こういう点は、精神科医を手本にするといいのではないだろうか?母の担当医と執刀医は過剰に元気すぎず、それでも力強い話し方でとても安心できた。ただ、執刀助手の女性医師がちょっと頼りなかったが。若さゆえなのだろうか?


私が幾度となく説得したにもかかわらず、父は別の病院で治療を受けることを頑として拒んだ。カルテのデータが佐賀大学付属病院ともネットワークで共有されていることも承知の上で、それでも好生館がいい、九州がんセンターには行かないと言い張る。母と弟が「でもね、何かあった時に一番頼りになるのは姉ちゃんなんだから、姉ちゃんの家から近いがんセンターがいいよ」と口添えしたにもかかわらず、首を縦に振らない。最後には母が「お義母さんに似て頑固だからね」と諦めたので、私も諦めた。



福岡の自宅に戻ってから、私も本格的に自分のエンディングノートにいろいろと書き足した。今回は海外のクライアントからのメールに返信するための英文メールテンプレを作ってクラウドに保存し、ファイルの保存場所をノートに書き留めた。コピペするだけで相手に私が死んだことが伝わるシステムだ。「病気で入院編」と「ケガで入院編」も作っておいた。日本語のテンプレも作っておくべきだろうか?いろいろ書き留めながら、これはもうフォルダを作ってすべてデジタル化しておいたほうがいいと思った次第。「さすがIT翻訳者は違うな!全部デジタル化されてるぞ!」と盛り上がるに違いない。そしてMacを使えない夫がムキーッとなればなおよい。

2016年11月16日水曜日

父、がんになる その2

去る10月29日に広島市で開催された広島医薬翻訳勉強会に参加して、がん治療に関する有益なお話を聞いたのに、なかなかそれを活かせずに忸怩たる思いでいる。

10月14日(月)に父を佐賀市内にある県立病院(正式名称:佐賀県医療センター好生館)に連れて行って、呼吸器内科で受けた検査の結果を聞き、外科へバトンタッチとなった。翌10月15日(火)、父は一人で再び病院を訪れた。なぜ一人で行ったかというと、呼吸器内科の医師が「明日の外科の外来は一人でいいですよ。検査結果とか手術の説明はご家族と一緒に来てくださいね」と言ったからだ。

ところが、病院に行ってみると外科の医師に「お一人なんですか?ご家族は?手術の説明するのでご家族一緒じゃないと」と言われたらしい。父が「今日は診察と検査だから一人でいいと言われました」と言うと「でも、こっちでやる検査はないです。もう全部検査終わってますし」と言われたらしい。とにかく来週もう一度家族を連れて来いって話になったらしいんだけど。

さてさて、なんで情報の共有できてないの?電子カルテだから別の診療科の医師もカルテにアクセスできるよね?アクセスしたら何の検査をして結果がどうだったか全部出るよね?なのに、何の申し送りもしてなかったの?と電話で話を聞いた私は怒り心頭だったし、母も「はあ?」って感じで「おかしいよね?」と苛立った様子だった。

ところで、一人で診察に赴いた父は「手術しなかったらどのくらい生きられますか?」と聞いたらしい。外科医は「そうですね、5年は厳しいでしょうね」と答えたらしい。「じゃあ、手術したらどのくらい生きられますか?」と聞いたら「10年生きられますよ」と答えたらしい。はあ?!

これ、父>母>私への伝言ゲームなのでどの程度正確かがわからないし、医師の言葉が厳密にどういう表現だったかもわからないのだけれど、言うか?それを一人で来た80歳の高齢がん患者に言うか?と再び私は怒り心頭。まあ、「聞かれたから質問に答えたまで」ってことなんだろうが。

がんであることを患者本人に伝えることに異論はないし、知った上でベストの治療を受けられるよう話し合うことは必要だと思う。ただし、信頼関係があることが前提。ところが、「余命」を聞く父も父だが、初対面なのにあっさり答えちゃうわけ?と思った。

母の時も思ったのだけど、「がんの疑いあり(しかも濃厚な疑い)」で検査を受けた時に、検査時にまずインフォームドコンセントの書類は渡さないのか?私が九州がんセンターで手術をした時は、入院前にインフォームドコンセントの書類を渡されて、どの程度の告知を望むのか?治療に関する最終的な判断は誰が行うのか?自分で判断できない状況になった場合にどうするのか?を事細かに聞かれたし、書面でも書かされたのだけれど。母の時も父の時も、そういう書類が一度も出てこない。これ、要確認事項としてリマインダーに入れておかなければ。

ちなみに父は「手術したらまた電気工事の仕事行けますかね?」と聞いて「さすがにそれはちょっと無理だと思いますよ」と言われたらしい。

この無駄足外来と医者の対応に関して、昨夜病院のホームページから「ご意見」を送った。本日午後3時現在、何の返信もない。

医者だからと無条件に尊敬する時代はとっくに終わっている。ところが親世代はちょっと違っている。今回のような重篤な疾患に限らず、病院に付き添って医者に向かってストレートに質問したり、疑問をぶつけたりすると親が困った顔をする。以前も、祖母が80歳くらいの頃、毎週早起きして歯の治療に送り迎えをしていた。すでに結婚して別に住んでいたのに、仕事に行く前に送り迎えをしていた。何回目かの治療の時に「いつまで通うんですか?あと何回ですか?」と聞いたら、その後「もう送り迎えしてくれなくていい。失礼な口を利くからタクシーで行く」と言われた。私はただ治療の先行きを知りたかっただけだ。

もちろん、来週病院に行ったら手術までのスケジュールを出してもらうつもりだ。こっちも毎回仕事を休んで佐賀まで行かなければならないのだから、いつどの程度の時間を必要とするのかの見積もりくらいは出してもらわないと困る。


こういう仕事してると、スケジュールにうるさくなるよね。

2016年11月14日月曜日

父、がんになる その1

母の肺がん手術から数ヶ月しか経っていないのに、今度は父ががんになってしまった。

10月半ば、用事がない限り電話をかけない間柄の母から電話。涙声で「お父さんもがんかもしれない」と言われた。風邪を引いたわけでもないのに何日も咳が続くのでかかりつけの病院でレントゲンを撮ったところ、左肺に腫瘍のようなものが写っていたため設備の整った病院で再検査を受けることとなった。母のときは佐賀大学付属病院に紹介されたのだが、父は持病の狭心症の治療で佐賀県立医療センター好生館(佐賀では「県立病院」と呼ばれている)に定期的に通院しているため県立病院で検査を受けることになった。

最初の検査日は私に急ぎの仕事があったため、弟が一緒に行った。レントゲンと単純CTの結果「がんの疑いあり、ただし間質性肺炎かもしれないが肺機能が著しく低下している」ということで、気管支鏡検査(一泊入院)を受けることになった。検査が終了するまで家族が待機せねばならず、私が仕事を休んで付き添った。本人は検査の説明を受けた時に「胃カメラみたいなやつを使って…」と聞いたらしく「胃カメラと同じ程度の苦痛」と勝手に判断していた。私が「たぶん胃カメラよりもっと苦しいと思うよ」と言っても「いやー、胃カメラと同じやろ」とひどく呑気だった。ところが、検査は30分ほどで終わったのだが、「もう二度と受けん」と言うくらい苦しかったらしい。鎮静剤を打たれていたものの、気管支から肺に直径5mmほどの管をぐいぐい通されるのだから、苦しいのが当たり前だと思うのだけれど。実は検査直前に狭心症の発作を起こし、看護師さんたちを慌てさせてしまった。本人は慣れているのと、付き添っている私は膝にMacBook乗せて請求書を作っていたので全然気付いていなかった。

さて、検査が終了しても医者が私に何かを説明する気配がない。ちょっとイラっとしたので「感じ悪いだろうな」と思いつつも、「画像見せてください」と詰め寄ったら「あ、ご覧になりますか?」と言いながら見せてくれた。病院や医者によって対応が違うので家族という立場では極力情報提示を求めるべきだと思う。

母が最近肺がんの手術をしたこと、ごく初期で転移もなかったこと、母の治療を見てきたので本人も同じ手術を受けると軽く決めていることを告げると医師の表情が曇った。「お父さんの場合、お母さんほど単純じゃないんです。むしろ、お父さんのほうが深刻なんですよね」と予想外の流れに話が向いた。「ほぼ確実に間質性肺炎なんですよ。そうなると抗がん剤も放射線も使えません。肺がんの可能性は高いのですが、お母さんと違って切って終わりではないんですよ」と、なかなかに重大な告知を受けた。

その後も2回、頭部から腹部までのCTやら骨シンチ検査を受けた(どちらも検査だけなので、父が自分で運転して一人で病院に行った)。母の時と違って「手間がかかってるな」と思ったのだけれど、念入りにやっているというより効率が悪いという印象しかなかった。気管支鏡検査の後で父に九州がんセンター(福岡)か、近くがいいのなら佐賀医大にしろと言ったのだが、父は循環器科の先生をとても信頼しているらしく、肺の治療も県立病院で受けたいと言い張る。正直なところ、循環器科の医者がどんなに良くても、肺の手術をするのは別人なんだから関係ないだろうと思ったのだが、これから痛く苦しい治療を受けるのは父なので本人の希望を採用した。

3回の検査の結果を父、弟、私の3人で聞きに行った。間質性肺炎と肺がんがほぼ確定した。「ほぼ」というのは、気管支鏡検査ではがんが確認できなかったのである。医師の説明によると、左肺上葉の一番背中側なので気管支鏡が届かなかったからだという。素人考えで申し訳ないのだが、その位置にあることはレントゲンとCTでわかっていたじゃないか?結局はレントゲン、胸部CT、腫瘍マーカーからがんと判断したらしい。再び素人としては「じゃあ、気管支鏡検査必要だった?!」とイラっとしたのだけれど。こういうこともあって私はがんセンターで受けるべきじゃないか?と強く思ってしまうのだ。

がん(現段階では100%定かではないものの)の大きさは2.5cmほど。左肺上葉を全部摘出するらしい。「え?区域切除とか部分切除じゃダメなんですか?」と聞いたら「間質性肺炎があるので区域切除で切開した部分から空気が漏れると危ないんです。あと、中央部分にもものすごく小さい影が見えるので再発の可能性なんかも考えると上葉全部取ったほうが安全です」と言う。おそらく私の顔に出ていたんだと思う。「ちょっとあんた信用できないわー」的な気持ちが。医師が「医大のほうがいいということであれば、データはすべてお渡ししますし、ご希望の病院で手術を受けていただけますよ。でも、お母さんの主治医のT先生より年上のベテランがここにはおりますし…」と言われたのだが、キャリアが長けりゃいいってもんじゃないだろ?と、ますます眉間にしわを寄せつつ、「お父さん、どうする?どうしたい?」と聞くと「ん?切るよ!」と即答。間質性肺炎はまだ繊維化の兆候は見られないので初期、肺がんも転移の可能性はゼロで初期のIa Ib(Ibに訂正。母と同じだがちょっと腫瘍が大きめ)。

肺の一番外側に腫瘍があって、それが癒着していると胸腔鏡手術では取りきれないのでその時は切開に変更するらしい。

さあ、それじゃ手術の予約か。年内に終われるかな?と思っていると、医師が「僕の仕事はここまでです。あとは外科の担当になりますので、外科で診察を受けて検査を受けていただきます」と言うので私はキレそうになった。病院によってシステムや各科間の連携が違うのは当然だと思うが、あまりに縦割りじゃないか?お前ら役所か?!あ、ここ県立だしな、いや医大だって国立だぞ!とはらわた煮え繰り返りそうになった。

帰り道に弟が「やっぱあれだなー、内科より外科がえらいって感じなんだろうなあ」と白い巨塔的なことを言うので笑いつつ、父に再度「がんセンターか医大で手術したほうがいいよ。データさえあればいいんだから」と説得を試みたのだが「がんセンター遠いし、心臓のことがあるから県立病院がいい」と譲らない。


父はあと数回診察検査を繰り返すのだが、幸い体力自慢なので平気そうだ。「困ったな。がんになったんじゃ、来月現場に行こうと思っとったのに行けんな」と言って母に「がんじゃなくても現場にはもう出るな!」と怒られ、「しょうがない。じゃあ、梅の木の剪定だけは済ませておこう」と言ってもっと怒られていた。実は、前日に剪定中に脚立から落ちて足を擦りむいたらしい。

間質性肺炎があるとちょっとしたことで増悪して「死ぬ」可能性があると聞かされた父は、ますます「好きなものを好きなだけ食って死ぬ」と調子に乗り始めている。「熊本城にも行きたいからEちゃん(近所に住むいとこで最近父と一緒に出かけてくれている)を誘って見に行こう!」と言っていたので、今頃『じゃらん』(紙媒体の方)でリサーチをしているに違いない。


やはり今回も私は「高齢者の医療に対して、子供がどこまで立ち入るか?」が大きな壁になっている。少なくとも父は病院を変える気はないことがはっきりした。そして私は病院を変えさせたい。


父編は母編より長くなるかもしれないと思う。ちなみに父にはくも膜下出血の既往歴もあるので、脳、心臓、がんの大三元だ。