2020年10月6日、父が死んだ。2016年10月に肺がん&間質性肺炎と診断されてからちょうど4年だった。内視鏡手術で病変部を切除し、半年後にリンパ節に転移が見つかり、2種類の抗がん剤治療を受けたのだが、生きながらえることはできなかった。あらためて当時のブログを見返してみると、最初の診断時に「手術をしなければあと5年は難しい、手術をすれば10年は生きられる」と言われていた。結果だけ見ると、手術してもしなくても変わらなかったんじゃん?とやさぐれた気持ちにもなる。父本人は希望を失わず果敢に治療を受けていたわけだが、内心どう感じていたのだろう? 今となっては知るよしもない。
ざっくりとした流れはこんな感じだ(抗がん剤が効かなくなったあたりはうろ覚え)。
- 2016年10月 肺がん&間質性肺炎と診断される
- 同年12月 内視鏡手術で肺を部分摘出
- 2017年8月 リンパ節に転移が見つかったため抗がん剤治療を開始
- 同年9月 抗がん剤によりがんが縮小する
- 2018年 縮小していたがんが大きくなり別の抗がん剤を使うが効果出ず
- 2019年 積極的な治療をやめると父が宣言
- 同年11月 がんによる症状(嗄声)が出始める
- 2020年7月 目に見えて食欲が落ち始める
- 同年8月 肺炎で入院、24時間酸素吸入開始
- 同年9月はじめ 退院、酸素ボンベを引き自分で運転して理髪店へ行く
- 同年9月はじめ 大型台風に備え、弟が庭の片付けをするのを作業着姿で監督
- 同年9月10日 再び肺の状態が悪化して入院、医師から長くないと告げられる
- 同年9月20日 私、実家に戻る
- 同年9月26日 自宅に一時帰宅(数時間のみ)、親しい親戚に会わせる
- 同年10月3日 鎮静開始
- 同年10月5日 電話で会話
- 同年10月6日未明 死亡
なんとなくおわかりいただけるかと思うが、死ぬ1か月前まで元気だった。もともと太っていたため、食欲が衰えてからも動き回るだけの力は残っていた。死ぬ前日も電話で普通に話ができたので、急に逝ったなあという印象だけが残った。
さて、病院から自宅に父を連れて帰ってきてからが葬儀委員長としての私の本番である。10年前に祖母の葬儀でだいたいの要領をつかんでいたとはいえ、コロナ禍である。「家族葬でいいんじゃない?」という緊縮派の私に対し、「みんなで送ってあげたい」と泣き崩れる保守派の母。葬儀社の担当者いわく「こういうご時世ですし、都会では家族葬とか一日葬とか簡略化の方向に進んでるんですけど、佐賀はちょっと無理なんですよ。家族葬にするからって言っても来ちゃうんです。近所の人とか、会社の人とか。止められないんですよ。だから、広い会場で椅子の間隔を空けて対処してます」だと。
結局、従来どおりの葬儀進行が決定。弔問客の受付開始時刻を繰り上げて、できるだけ密を避けること、手指消毒とマスクの着用をお願いすることとなった。
通夜・葬儀については、母の希望を最大限に受け入れることとなった。事前に夫から「お義父さんのお葬式はお義母さんのためにやるのであって、君のためではない。お義母さんの希望を優先してあげた方がいい」と釘を刺されていたからだ。
ちなみに見積もりの段階で予想(祖母の葬儀費用を元に算出)を30万ほど超えていた。
喪主は母だが、実際に仕切るのは長女である私だ。とはいえ、長男である弟にも情報共有が必要だ。そこで、クラウドを利用してリアルタイムな情報共有を行うこととした。通夜・告別式で使う写真などはGoogleドライブに入れること、スプレッドシートで出費を管理することなどを決めた。決めたはいいが、おそらく私が全部やることになるのだろうなとも察した。
打ち合わせを終えるとスライドショー用の写真選定に取りかかる。これはある意味楽しい作業だった。準備がいい人なら、元気なうちにスライドショーの写真を用意することもあるだろう。私もそうするかもしれない。でも、遺族が写真を選ぶことに意味があるのかもしれない。弟は父と写った写真が少ないことに愚痴を言いながら「そういえば幼稚園でさ~」と思い出を語る。私は父と一緒の写真を見て「お父さんの子守は毎回グダグダでばあちゃんに怒られてたね」と当時を思い出して苦笑する。夜遅くまで家族や親戚と笑い転げたり、父に話しかけたりしながら写真を選んだ。
棺には運転免許証と電気工事士の免許証、作業着、大福やどら焼きを山ほど入れてあげた。あの世でも働かせる気満々である。
コロナ禍ということもあり、通夜・葬儀ともに子供の参列は控えてもらった。私も弟も子供がいないが、親戚はどういうわけか子だくさんである。そこで、子どもがいる家庭は父と血がつながっている者だけが短時間だけ弔問に訪れるだけでよし、なんなら来なくてもいいと伝えておいた。
そういうわけで、親族の参列者はこれまでで一番少なかったのだが、予想に反して親族以外の参列者が多かった。他の地域ではどうか知らないが、佐賀ではまだ新聞のおくやみ覧に掲載する人が多い。これは、葬儀後にだらだらと自宅に弔問に来られては面倒だから、新聞で周知して弔問客を一気にさばいてしまおうという意図である。また、近日中に自宅の電気工事をする予定だったので、父の元職場にも連絡を入れた。新聞を見た近所の人、父と一緒に働いていた人がたくさん参列してくださった。
職場での父は、家庭での父とはまったく別人だった。家では穏やかで、頼りなく、声を荒げることは一度もなかった。会社ではその逆である。鬼のように厳しかったらしい。父の忘れ物を届けに現場に行ったことがあるのだが、ものすごく怒鳴っている人がいて、それが父だとわかったときの驚きは今でも覚えている。
葬儀では家族でさえ知らない一面を垣間見ることができる。家族葬だったら、職場での父の様子を知らないままだったかもしれない。
火葬場にいく親戚はごく近い親戚だけ10数名。火葬後にお寺で三日参り、葬儀場経営のレストランで食事会をして散会とした。
葬儀が終わってもそこで終わりではない。四十九日まで七日毎の法要があるのだ。今回、私はこれを簡略化しようと目論んでいた。そこで、「コロナ禍だし、初七日と四十九日以外は来なくていいよ!」と言った。ところが、「そんなこと言わずに来させてほしい。食事も何もいらないから。お茶だって自分で持ってくるから」と食い下がられ、ごくごく近い身内だけ来てもらうこととなった。おかげで、私も毎週、福岡と佐賀を往復することに。
大牟田出身の母は「大牟田ではさあ、葬式の後で親戚が来るのは初七日と四十九日だけよ。こんなに毎週来ないのに」と愚痴っていた。祖母の葬式のときも同じように愚痴っていた。「大丈夫。お母さんのときは、もっと簡素にするからね」と約束した。何度目かの法事で母が突然、夫に向かって素っ頓狂なことを言い出した。「次の法事、あなた来なくていいから。そしたら、親戚に来なくていいって言いやすい」と。それを言われた夫は、「えー! 長女の婿が来ないなんて、ちょっとマズくないですか? やだなあ、陰口言われるじゃないですか!」簡略化の企みはもろくも崩れた。
四十九日も近い親戚だけで執り行ったとはいえ、手間もお金もそこそこかかった。
最終的にかかった費用は予想を70万ほど超えてしまった。それでも、母が納得して父を送ることができたのでこれでよかった。