2022年12月12日月曜日

戻ってこいよ

去年に続き、夫が大学時代に所属していた軽音サークル主催のイベントに行ってきた。

おんせん県ということもあり、特に冬場は宿がすぐに埋まってしまう。今年は旅割効果もあってか、いつも泊まるビジネスホテルは満室で、しかも旅割が完売した後だったので、割高な宿泊料金だった。しかし、いつものビジネスホテルよりも客室が広かったことと、ホテルそばの居酒屋が料理も酒もべらぼうに美味しかったことは嬉しい誤算だった。

さて、ライブだが、今年は夫に出演の機会はなかった。出演者は同年代からちょっと上の先輩方。みなさんお上手。そして、ほとんどの演者が男性。ここに私は去年から引っかかっている。

会場に集まった人の男女比は半々だったし、集まった女性のほとんどが軽音サークルのメンバーだった。ということは、全員がパートは何であれバンドをやっていたのだ。ところが、ステージに立った女性はほんの数名(半分は部外者)。バンドはメンバーが集まらないと演奏できないわけで、そのために一日限りのセッションバンドを組んで演奏するコーナーもあり、去年の夫はこの機会を利用してステージに立った。ところが、このセッションバンドのプレーヤーも男性ばかり。

ライブ後、日本酒を飲みながら「なんで演奏するの男ばっかなん?」と無遠慮に聞く私に、ほらきた!この質問!という顔で「だーかーらー、俺は去年も今年も女の子たちに声をかけて来年は出なよって言ってるよ。でも、ムリですよ~って言われたら無理強いはできんやろ?」と言う夫。たしかにそうなのだ。私も見ず知らずの後輩女子に「ドラムやってたの? じゃあ、叩こうよ! 来年一緒に出よう?」と声をかけたら、「えー、もう叩けませんよー!」と言われた。

彼女たちはおそらく卒業と共に音楽も卒業したのだ。就職、結婚、出産、育児と忙しかったに違いない。そして、そこに音楽が入る余地はなかったのだ。私だってそうだった。2018年にシナロケのライブに行くまで、もう一度弾こう!とは思わず、仕事で一杯一杯になっていた。男性だって、音楽を離れてしまった人の方が多いかもしれない。でも、続けている人の数はどういうわけか、男性の方が圧倒的に多いのだ。

ブランクが長くなると、ブランクなしに続けている人との差が挽回不可能なまでに開いてしまう。その差を認識した瞬間、わずかながら残っていたやる気までも蒸発してしまうのかもしれない。しつこく言うが、私は2018年にシナロケのライブで鮎川誠がジャーン!とギターを鳴らした瞬間に、「私もギターを弾かねば!」と思ってしまったのだが、そんな風に天啓に打たれる人間は少ないだろう。

オーディエンスとして集まった元ガールズはとても楽しそうに盛り上がっていた。はたして来年、ステージに戻る人は出てくるのだろうか。幹事さんもこの男女差が気になっていたらしく、さかんに呼びかけていたようだ。

モヤモヤしたままの私は、高校時代のガールズバンド仲間にメッセージを送った。彼女も音楽を離れたままのひとりだ。「ストレス解消にドラム叩かない? ふたりで音出そうよ」と誘ってみると、秒で「やる! 叩きたいと思ってた!」と返事が返ってきた。さっそくスタジオを予約して、約40年ぶりに再結成が決まった。ギターとドラムだけだけど。

この成り行きを見ていた夫は、「だからさ、やりたいな~って気持ちが少しでもあれば、乗ってくるはずなんだよ。ムリです~って言う人は、やりたくないんやろ」と言う。

夫も学生時代のバンドメンバーひとりとようやく連絡がついたらしく、来年の出演を目指して説得をしている。ドラマーが音信不通なので、なんなら私の友達を引き込もうと狙っている。「キミんとこのドラマー、野良犬みたいに走る*からなあ~」とか言いながら。そして私は夫のバンドでサイドギターをするために、ルースターズの曲を練習し始めた。


*走る:テンポがどんどん速くなること。

2022年11月29日火曜日

母と暮らせば

弟が入院して以来、実家で母とふたりで暮らしている。

つらい。あまりのつらさに胃炎になってしまった。おまけに腸の調子も不調で先週から病院に通っている。私たちは、私が生まれたときから、ずっと疎遠な親子なのだ。それなのに、いきなりふたりだけで暮らしているのだ。

母にとって結婚生活のはじまりは苦痛に満ちた日々だったという。そしてそのつらい日々の象徴のひとつが私なのだ。若かりしころの母は、「この子さえいなければ、ここから出て行けるのに」と何度も思ったという。そして、そのもどかしさは時に、小さな暴力となって私に向けられた。幼い私は母からできるだけ離れた。母が実家に帰るときは、祖母と留守番をすると言ってきかなかった。私は祖母にべったりくっつくことで自分の身を守った。

弟が生まれるころには母も新しい暮らしに慣れ、気持ちの余裕も取り戻したのであろう。母は弟を可愛がった。弟も母によく懐いた。私が母に叩かれることもほとんどなくなった。

それでも、私はずっと、「叩かれるかもしれない」という小さな恐怖にとらわれたまま大人になった。もう叩かれることはないとわかっていても、ふたりでいるときは常に心の隅っこが緊張しているのだ。母にとって私は「お気に入りではない方の子ども」であり、私にとって母は「親戚のおばさんと同程度あるいはそれ以下の人」のままなのだ。ちなみに私にとっての父も「親戚のおじさんと同程度の人」だった。

母とふたりで暮らすようになってずっと、嫌な既視感がまとわりついてくる。母に対して小言を言うときの私の口調が、あの頃の母と同じなのだ。そして母の私に対する態度が、幼い私の母に対する態度と重なるのだ。彼女はおそらく、「娘の機嫌を損ねると叩かれるかもしれない」と思っているのかもしれない。私たちは鏡なのだ。だからふたりでいるとつらいのだ。

とはいえ、このような重苦しい気分が常に私たちを覆っているわけではない。ふとしたはずみにちらっとかすめて通り過ぎていくと言ったらよいのだろうか。私はできる範囲で親切にしようと心がけている。

心の奥の奥の奥に残ったわだかまりが解けて消えることはないだろう。こうして書いてみると、まだまだ言葉にできるところには至っていないということがわかった。

2022年11月16日水曜日

This is HEAVY.

弟が肺がんになった。

1年ほど前に本格的に2拠点生活を始めて以来、2週または3週おきに1週間実家で暮らしている。お盆はちょうど実家にいたのだが、その直前に弟の勤務先で数名が新型コロナに感染したらしい。部署が違い、勤務している建物も違うので濃厚接触者にも該当しないという話だった。だったのだが…咳をしている。私が滞在している1週間の間、ずっと咳が聞こえる。朝晩がひどいようだ。熱などはないという。

9月上旬、実家に行くとまだ咳をしている。ひと月近く経っているのにどういうことだ? 「病院に行け」と促すが、「えー?! このご時世に風邪のような症状で病院に行くのはなあ…」と言う。それはそうかもしれないが、高齢の母に感染するような病気だと困るだろうに。今になって思えば、この時点で首に縄を付けてでも病院に連行すべきだったのだろうか。

10月上旬、父の三回忌のため夫と一緒に実家に。まだ咳をしている。しかもひどくなっている。夫が「それは病院に行った方がいいよ。咳喘息とか、気管支の病気とかかもしれないよ?」と説得した。

そして、10月下旬になってようやくかかりつけ病院に行って相談したらしい。PCR検査で新型コロナ陰性を確認後、診察を受けたという。それから1週間たった10月末、弟から電話がかかってきていきなり「肺がんかもしれないって」と言われた。紹介状をもらって県立病院で改めて検査を受けることになった。

11月4日、紹介状を持って県立病院へ。この日は血液検査、レントゲン、造影剤CTのみ。咳止めの薬を処方してもらう。週明けの11月7日に1泊入院して気管支鏡検査で組織を採取。翌日退院。私もいったん福岡の自宅に戻ったのだが、すぐに弟から電話。母が気分が悪いというので病院に連れて行ったらそのまま入院になったという。不安発作だった。できれば、弟の治療が一段落するまで母にはこのまま入院していてほしいと思ったのもつかの間、翌日には退院。

11月11日、PET CT検査(遠隔転移の有無を調べる)、14日、頭部MRI検査。15日、すべての検査結果をもとに治療方針が決定、説明を受けた。

扁平上皮がんステージIIIA。原発巣の右肺下葉に加え、リンパ節への転移あり。遠隔転移なし。抗がん剤と放射線治療を同時に行うことになった。18日に入院、21日から治療を開始。入院期間は約2か月。父ががんと診断された6年前に比べると、薬も進化している。主治医の先生が「ステージは進んでいますが、根治を目指すことは可能です!」と力強く言ってくれた。咳が続くと近所の病院で受診して治療開始まで約1か月。このスピード感が事の重大さを表している。

そして、私と母のふたり暮らしも確定した。とはいえ、私も2か月間ずーっと実家にいるわけにもいかない。キャンセルできない予定もある。そこで、ケアマネさんにショートステイの相談をした。

要支援2で、現在の介護保険利用状況から算出すると月に2泊までしか補助が出ないらしい(金さえ積めばいくらでも利用できるのだろうが、そんな余裕はない)。最初にショートステイの話をしたときは「仕方ないね」と承諾したかに見えた母が、ケアマネさんとの相談中に「2泊くらいやったらひとりで大丈夫だ」と言い出した。私の怒りが瞬時に沸点に達する。「大丈夫かどうか決めるんはお母さんじゃない! また不安発作起こしたらどうする? ひとりで何ができる?」と怒ると、母が渋い顔をしてケアマネさんに「ねえ、娘はいっつもこう。厳しくてね~」と訴える。ちなみに、私の母に対するキレ方が、子どもだった私に対する母のキレ方とまったく同じで、ときどきゾッとする(手を出さないだけまだマシ)。彼女がそれに気付いているかは知らない。

ケアマネさんが「この前みたいなことがあるとひとりは大変だから。息子さんが治療に専念できるようにしましょうよ」とアシストしてくれたのだが、「介護施設にステイ」が気に入らないようで、「かかりつけの病院に泊まりたい」と言い出した。病院によっては「レスパイト入院」といって、ショートステイ的な利用が可能な病院もあるらしい。かかりつけの病院が受け入れてくれることを祈ると同時に、そんなに「ひとりで大丈夫」と言うのなら、実際に2、3日ひとり暮らしさせてみようかとも思う。

2022年5月24日火曜日

Mr. Teddy Boy

最近、M子のことを頻繁に思い出す。彼女は高校の同級生で、一緒にバンドをやっていた。バンド結成時のいきさつはよく知らないのだが、私はたまたま音楽の時間に簡単な伴奏をしたことがきっかけで声をかけられた(このとき弾いたのはクラシックギターだったと思う。全然弾けていなかったが)。当時、女の子でエレキギターを弾ける子はまだ少なかったのだ(厳密には、持っていただけでほとんど弾けなかった)。高校1年生の冬、超初心者ガールズバンドPowderが誕生した。

放課後、楽器店にたむろし、店員のN村さんにギターやベースを教えてもらう。授業料的なものを払った覚えがないのだが、おそらく、そこで楽器を買ったりスタジオを使ったりするからチャラだったのかもしれない。N村さんは当時20代後半で、元セミプロバンドのギタリストだった。サンハウスとの共演経験もあり、鮎川誠とは友人だ(ということは、最近になってから聞いた)。

最初の数曲はN村さんが私たちにも弾けそうな曲をセレクトして教えてくれた。はじめてスタジオに入って音を鳴らしたときの衝撃は今でも忘れられない。その後は、キーボードでリーダーのE美主導で「なんとか弾けそうな曲」を選ぶようになった。初代ボーカルが脱退し、加入希望者をオーディションしてM子が2代目ボーカルになった。

「弾けそうな曲」と「弾きたい曲」「好きな曲」は往々にして異なるものだ。M子はオールデイズっぽいロックンロールが好きだったが、他のメンバーが興味ゼロだったために却下されていた。

ある日、M子は実力行使に出た。スタジオに来るやいなや、「曲作ってきた! 歌詞も書いた! 楽器のアレンジはみんなに考えてほしい!」とメロディーラインだけを書いた楽譜を叩き付けた。その熱い想いに打たれた私たちは、全員でアレンジを考えた。ライブでこの曲を披露するために、M子は張り切ってオールデイズっぽい衣装を作った。これぞ青春。

M子は40歳を迎える前に病気で亡くなった。それから10年以上経ち、E美からデジタル化したレコーディング音源が届いた。それ以来、私は10代のころに演奏した曲を練習し続けている。M子はもういないけど、17歳の私たちが演奏する最高のオリジナル曲を聴いてほしい。

"Mr. Teddy Boy" Written by Miwako Nanri


この音源を聞いた夫が、「このギターソロ、女子高生が作ったにしてはよくできてるな。ほんとに自分で考えた? N村さんに作ってもらったんやろ?」と言うのだが、覚えていない。でも、不思議なことにこのソロはあっさり耳コピできたので、おそらく私が考えたはず…だと思いたい。




2022年2月24日木曜日

2拠点生活メモ

今年から本格的に2拠点生活が始まった。

2021年8月に母が体調を崩して入院。数日で退院できると思っていたが、予想以上に長引いた。本人は「胸が苦しい」と言うのだが、どれだけ検査をしてもどこも悪いところはない。長年診てきた医師が「もしや?」と思い抗うつ剤を投与したところ、みるみる回復した。9月に退院できたものの、入院生活が長引いたため、ちょっと足元がおぼつかなくなっていた。ひと月ほどで状態も落ち着き、私は自宅に戻った。

それから約1か月後、母がまた体調を崩して入院したのである。弟の話を聞くと、私が帰った後も調子がよかったという。診察の時に「とても元気になったので抗うつ剤はいらない」と言ったようだ。これがマズかった。12月の初めに一旦退院して自宅に戻ったものの、数時間後には「胸が苦しい」と言い出し、そのまま病院へとんぼ返り。結局、退院できたのは1月の上旬だった。

昨年9月の時点で、実家で仕事をするためのデスクと椅子を買った。買い替えで余っていた古いモニタを実家に運んでマルチモニタ体制も整えていた。パソコン(コンパクトデスクトップ)、キーボード、ローラーバーマウス、何冊かの本(紙の辞書、頻繁に参照する本など)を段ボールに放り込み車に積み込むだけ。服も何着か実家に置きっぱなしにした。

今年になってからは、荷物の積み込みを減らすためにノートパソコンを新調した。キーボードも買い足したので、ノートパソコンとローラーバーマウスだけを持って行けば仕事ができる。自宅の仕事環境をそっくり再現することは不可能だが、かなり近い環境ができた。紙の辞書や資料については、実家近くの図書館で利用者登録をした。これが思った以上に大変だったので、今後2拠点生活で仕事をする可能性がある方は今のうちに調べておくとよいと思う。

実家の近くには市立図書館と県立図書館がある。1月の時点で県立図書館は改修工事のため閉館中だった。市立図書館は原則、「市内在住者、通勤・通学している者」にしか貸し出しできないという。コロナ禍であるため、館内の滞在時間も短くしろとあちこちに貼り紙してあった。図書館に問い合わせると、長期帰省中の学生などについては、申請をして審査を通れば例外的に貸し出しが認められるらしい。申請書を出したうえ、市内に実家があることを証明しなければならないという。「3か月以内に届いた世帯主宛の消印付き郵便物」を提示するよう求められた。審査には約1週間ほどかかるとも言われた。

みなさん、ご自宅に届いた郵便物があればちょっと見ていただきたい。いまどき、消印が付いた郵便物ってないよ? 役所から送られてくる郵便物もダイレクトメールも料金別納だ。私の実家には一通もなかった。役所から母宛てに届いた郵便物を提示したらあっさり認められたけど(「役所から」というのがキモだったようだ)。

申請書には実家に滞在する理由を詳しく書かなければならない。「高齢の母の介護のため」と書いていたら、いつまで介護が必要なのかもっと詳しく書けという。このあたりでちょっとイラッとしてきた私は、「え?死ぬまでって書いておけばいい?」と突っかかってしまったし、実際にそう書いた。笑えない。高齢化社会とリモートワークの普及で、今後2拠点生活をする人が増えるだろう。市民じゃないけど図書館を利用したい人も増えるだろう。もっと、柔軟に対応できないものだろうか?

ちなみに県立図書館は「日本国内に居住していれば誰でも貸出可能」だそうだ。後日こちらでも利用者カードを作る予定。

そして申請書を提出した翌日、図書館から「利用者カードができたので取りに来てください」と電話があった。脱力した。あんなに渋る必要あった?

こうして、環境を整えたことで2拠点生活のストレスは大幅に減った(猫がいないことを除き)。私の場合は、車で1時間ほどの距離なので移動の負担はさほどでもない。必要とあらば、今すぐにでも行ける状態だ。強いて言えば、自分の通院日を外すくらいだろうか。あらかじめ、どの週に実家にいるかを母にも伝えておくと、仮に何らかの手続きが必要になったとしても日程を組みやすい。

今後しばらくは月の半分くらいを実家で暮らすことになる。幸いなことに、母は身の回りのことはすべて自分でできる。なぜ私が2拠点生活をするかというと、母や弟の不安を軽減するためだ。弟は仕事に行っている間、高齢の母がひとりで家にいることに不安を感じている。母は人に迷惑をかけたくないがために、身内であっても助けを求めることができない。このふたりのメンタリティは家族主義が抱える根深い問題だと思うが、それはさておき、私が実家にいる時間が増えればふたりの不安はぐっと減る。私の不便はぐっと増えるが…。

父が死んだときに悲しくはなかったが、もう少し顔を合わせていればよかったのかなあ?と思った。とびきり薄情な私は、明日母が死んでも悲しくないだろう。「まあ、ちょいちょい一緒に過ごしたからよかったやろ?」と言うためだけに2拠点生活をはじめたと言っても過言ではない。