2016年12月31日土曜日

2016年を振り返る

光陰矢の如し

油断していたらあっという間に大晦日。今年も色々な出来事がありましたが、時系列に振り返ってみます。

1月〜3月
4回目のフルマラソン完走を目指し、なかなか充実した練習ができたと思います。体重が増える一方で、食事制限をしてもまったく減らせなかったことを除いては。20km強のロング走を何度か走り、体調も万全で過ごせました。体重が増えたことを除けば

4月
4回目のフルマラソンは前半に足を痛めるアクシデントはあったものの、プランどおりに走れた上に、自己ベストも大幅更新できて満足のレースでした。マラソンの興奮も冷めやらぬ中起きた大地震。とても身近な土地である熊本と大分に甚大な被害が発生し、今なお不便な生活を強いられている人のことを思うとやるせないです。1日も早く両県が震災前の大らかでハッピーな暮らしに戻れますように。震災復興の思いも込めて、2016年は熊本と大分の温泉を重点的に攻略することにしました。結果的にはあまり行けなくて残念でしたが、今後も足を運び続けたいです。

5月〜8月
7月のある日、テニスをやった翌日に右膝が腫れ上がり、90度以上曲げられない、当然正座も出来ない、痛みで体重をかけられない状態に。数日湿布を貼って様子を見たものの一向に改善せず、病院でMRIを撮ってもらったら半月板が割れていることが判明しました。この日から約2ヶ月間、一切走れない状態になりましたが、水中ウォーキングをするために夏の間は毎日プールに通いました。また、母の肺がんが発覚したのもこの頃です。昨年は「働きすぎた」感が強かったので、自分の時間を確保するために2割くらい仕事をセーブするつもりだったのですが、母のがんがきっかけで仕事を休むことが増え、佐賀に帰る回数も激増しました。幸い早期発見だったので、手術後半年以上経っても再発の兆候はありません。

9月〜10月
9月に福岡で初の自主勉強会が開催されました。当ブログでも紹介しましたが、関東、関西で活躍中の翻訳者によるレクチャーと懇親会に参加。多くの方にお会いできて実り多い1日となりました。また、10月は広島の医薬翻訳者勉強会に遠征。現役医師によるがん治療についての興味深いレクチャーを拝聴する機会に恵まれました。スケジュールの都合で日帰りとなりましたが、広島にはまた行ってみたいと思います。お好み焼き美味しかったです。

11月
父にも肺がんの疑いがあると母から電話があったのは11月。まだ先月のことです。術前の検査などでほぼ毎週のように佐賀に帰りました。仕事にも多少の影響は生じました。

12月
父の肺がん手術のために数日仕事を休んで佐賀に帰りました。もうすっかり元気ハツラツ、がんになったことが嘘のように復活しています。父が弱々しかったのは術後数時間だけで、翌日にはもうスタスタ歩きまわっていたので家族全員安堵しています。あとは、痴呆症で徘徊なんてことにならないよう祈るだけです。

秋以降は何かと忙しく、気がついたら大晦日というのは誇張でもなんでもないです。先日、会計ソフトで今年1年の売り上げを確認してみたら、4割ほど減少していました。来年以降も家族の事情で休むことが減ることはないでしょうから、モバイル環境の整備も含め、働き方を見直す必要もありそうです。

2017年も引き続き、よく働き、よく遊び、よく食べ、よく飲む1年を目指します。フルマラソンはもう無理かもしれませんが、10kmレースには出たいです。近所のスーパー銭湯やマッサージなど、ささやかなストレス解消をもっと増やさないと体が持ちません。

2016年12月29日木曜日

父、がんになる その8

12月2日に入院、5日に手術、15日に無事退院した父。年末の慌ただしい最中、12月27日に血液検査、CT検査を受け、手術で切除した組織の病理検査の結果を聞きに行くのに同行した。朝6時に起きて朝食を食べ、7時過ぎまだ暗い中を車で佐賀へ。

実家に着くと入院前と一切変化がない父がいた。退院当日に電話で話したときは「どこも痛くない。お母さんの痛がり方はちょっと大げさだったと思う」という発言をしていたのだが、この日は「家に帰ってきてからは痛い。腕を動かすと傷口が痛いのは仕方ないけど、胸の中が痛い。まあ、困るほどじゃないけど」と言いながら家の中を落ち着きのない小動物みたいに動き回っていた(年末なので正月の準備やら何やらやることが山積みらしい)。

病院の中では同行した母の車椅子と悪戦苦闘する私をよそに、自分だけさっさと検査を受けに行き、検査終了後に診察室前で待つ私らに合流。動くと息が切れると言っていたはずだが、あまり息が切れているようには見えない。座ったかと思うと「お茶飲む?」と聞くや否や病院内のコンビニにお茶を買いに行ってしまった。呆然とする私に「何も変わってないやろ?週末おばちゃんが来てくれたけど、どっこも変わってないってびっくりしてたよ」と言うくらい、本当に機動性が一切落ちていないのだ。

診察まで随分待っていたのだが、父が突然他の人に「あら、こんにちはー!」と話しかけた。地元だし、田舎だから知り合いとばったり会うのも珍しいことではないが、後で聞いたら同じ病室に入院していた人らしい。二人の会話から「同級生」というワードを小耳に挟み、相手の方が父と同じく白髪の老人だったので「父の同級生が娘に付き添われて診察に来ている」のだと思った。

「違うよ!えみちゃんの同級生よ!」

えみちゃんというのは実家の近所に住む父の従妹で、父が入院中脚が悪い母に代わって病院に洗濯物を取りに行ってくれていた。ちなみに「えみちゃん」は64歳である。単に老けて見える人だった。付き添っていたのは娘さんではなく、奥さんだったのだ。

えみちゃんの同級生という男性は同じく肺がんで手術したものの、がん細胞の位置が悪かったため手術で取りきれず、来月から抗がん剤治療を受けなければならないと、やや辛そうな顔で父に話していた。同じ病室にいた別の男性は手術を受けられないほどがん細胞が広がっていて、今日から入院して放射線治療を受けているという話もしていた。

「お父さん、同じ病室にそういう深刻なステージの人がいるといたたまれなくなるよね、普通?それなのに、お父さんはそういう人たちの前で「芋ケンピ」をポリポリ食ってたわけよね?」と問い詰めると、「もう1人の人は夜中にお菓子ポリポリ食べよったよ」と責任逃れを始めた。

病理検査の結果、扁平上皮がん組織が80%、腺がんの組織が20%混在していたらしい。こういう2種類のがんが一緒にできてしまうことは稀なことではないらしい。がん細胞は手術で取りきれていたものの、間質性肺炎の経過も注視しなくてはならないため、今後は3か月ごとに検査を受けることをすすめられた。手術の動画をダイジェストで見せてもらった。肺が胸腔壁に癒着していたのは、過去に肺炎にかかったためらしい。自覚症状がなくても軽い肺炎にかかることは珍しくないし、肺が胸腔壁に癒着したからといって特に不便は生じないのだそうだ。

母の手術を執刀した医師が、佐賀医大から異動になって県立病院勤務になるらしいので、これを機会に母も転院してくれると手間が省けて助かるのだが。ちなみに、母は前日検査を受けていて、転移もなく、次回は7月に検査を受ける予定。

今年は夏前に母のがんが判明して以来、仕事をかなりセーブした。スケジュールが不確定な案件や、手術前後のタイミングでの打診はお断りした。その結果、今年の売上は昨年に比べると大幅ダウンとなった。仕事をセーブすると当然収入は減るのだが、時間に若干余裕ができて、心があまり荒まなかった。

仕事もアルコールも適量が大切だ。

2016年12月18日日曜日

父、がんになる その7

手術の6日後となる12月11日(日)、母から電話がかかってきて「お父さん火曜日に退院できるって。今日担当医の先生が来て火曜日に退院していいですよって言ったらしいけど、まだリハビリ中は酸素ボンベ使ってるのに退院して大丈夫かね?」と退院予定に異議を訴えられた。翌日、父が担当医に「リハビリ中は酸素ボンベ使ってますが、退院しても大丈夫ですか?」と確認したら「あ、そうなんですか?じゃあ、リハビリ担当の先生に確認してみます」と言われたらしい。

そろそろ横断的に情報を共有してくれないか??

結局、手術から10日後の12月15日(木)に父は退院した。平日ど真ん中ということもあり、近所に住む親戚が病院に迎えに行ってくれたらしい。自宅に戻った父から電話があり「風邪引かないようにって言われたからマスクしてる。外には出ないようにする」と、若干的外れな発言が出てきたが、外から帰ってきたらうがい・手洗いを徹底するように伝えた。退院当日に父から聞いた状態は以下のとおり。


  • 安静にしていれば痛みも苦しさもゼロ
  • 歩いたりして動くとすぐに息が上がる
  • 息が上がるが「苦しい」という感じではなく、ちょっと休憩するとどうということはない
  • 腕を動かすと傷跡にちょっと痛みを感じることがある
  • 母が訴えるような胸や背中の内側からくる痛みは全くない
  • 「お母さんはやっぱり大袈裟なんじゃないか?w」


父ががんになって手術を受けたことは母方の親戚には言っていない。父方の親戚も近しい相手にだけ伝えている。元日は毎年母の実家に親戚が集まって食事会をするのだが、子供も何人かいる(私のいとこの孫)。子供経由で風邪をうつされるのが正月一番の懸念材料。ゆえにきちんと病気のことを伝えて、もし風邪を引いている子供がいれば父は参加しないようにすればいいのでは?と思うのだけれど、高齢者は必ずと言っていいほど「無用な心配をかけるし、お見舞いをもらったらお返しをしなくちゃいけないから言わなくていい」と譲らない。こういう考え方は結果的に面倒を招くだけなのだが、うちの両親の病気に気を遣った姑が「ちょっと申し訳ないから正月の温泉をキャンセルしてくれ」と強固に主張したことからもわかるよう、無用な心配は止めることができないから受け入れるほかにないのだ。

年末は26日に母の通院(術後約半年の診察と検査)、翌27日は父の病理検査の結果が出る。今後も両親とも定期的に検診を受けてがんの再発がないかを確認することになるのだが、母は「再発したとしても治療はしない!」と明言している。できれば文書化してほしい。父は逆に「手術は厭わない」のだが、本人の意思とは裏腹に再発しても治療する道はない。

今年は高齢の親が入院手術をする大型イベントが繰り返されたため、仕事をかなりセーブした。もちろん収入も大幅減だ。親の介護をするか否かは別にして、車椅子の扱い方を練習しておくことをみなさんにオススメしたい。思った通りに動かすことは意外に難しいのだ。断捨離も早くから取りかかっておくと良いと思う。今回、母から古い写真を数枚と、ひいばあちゃんからもらった指輪を「生前形見分け」してもらった。「生前形見分け」については、祖母が死んだ時に私がもらう予定だった着物が別の親戚に譲渡されていて、私の手に渡らなかったことを反省して前倒ししたのだ。



結論:「フリーランス=時間が自由になる人」と思われがちだが、実際はさほど自由ではないし、休んだら当然売り上げが減る。どの程度までなら休めるのか、どの程度までなら売り上げが減っても大丈夫か、急に3日以上(あるいは1週間以上)休まなければならなくなった時のクライアントへの対応も含めて今のうちから決めておくといいと思う。そして何事もこちらが意図したとおりにはいかないものだ。


追記:父は術後数日で予想どおり自由に買い食いをして誰に怒られることもなくおやつを楽しんでいたらしい。入院ダイエット失敗。


2016年12月9日金曜日

父、がんになる その6

12月5日(月)に手術を受けて肺の一部を摘出した父は、術後ICUで術後管理を受けた。ICUで面会した父は、来年80歳になる高齢者らしく弱々しい姿で痛みに呻いていた。その姿を見た母は涙を流しながらICUを後にした。

と、ここまでが前回のお話。

翌12月6日(火)の正午ごろ病院から電話がかかってきた。「今日の午後2時ごろ、予定通りに一般病棟のほうに移ることになりました」と。その時点でも母は「え?そんなに早く戻して大丈夫かね?」と半信半疑だった。ICUに入るために一旦すべての荷物を持ち帰っていたため、再度キャリーバッグに詰めた着替えや洗面道具を持って病院へと向かった。ただし、私と母の2人で。これが思った以上に大変だった。まず、私はへなちょこで非力だ。しかもキャリーバッグにはキャスターが2個しか付いていない。従来のスーツケースのように押していくことができない。しかも扱い慣れない車椅子を押して母も運ばなければならない。母とて車椅子を自分で操れるほどには慣れていない。片手でキャリーバッグを引っ張りながら、もう片方の手で車椅子を押すのだが、非力な私にうまく操れるわけもなく、見かねたお年寄りが颯爽と助けてくれた。

やっとの思いで呼吸器外科の病棟にたどり着くと、「もうすぐ戻ってこられますのでお部屋でお待ちください」と個室に案内された。この個室が狭い。差額ベッド代が¥4,000の個室だから仕方がないが、部屋にトイレがあるだけで車椅子を置く余地もない。病室入り口でまたもや車椅子とキャリーバッグに悪戦苦闘していると背後から「ありゃ?見舞客の方が病人らしかね!」と呑気な声が。車椅子で運ばれてきた父である。私たちがジタバタしている姿を見て笑っている。

「あ、お父さん。痛くない?」と声をかけるやいなや、すっくと車椅子から立ち上がり「ん?大丈夫よー」と言うと自分の足でスタスタとベッドまで歩いて、どっかりとベッドに横になった。どうやら自分でトイレにも行けるらしい。明らかに母よりもモビリティ性能が高い。手術翌日なのに。

「ご飯は?今夜から?」と聞くと「いや、お昼ご飯食べたよ。えーっとね、ハンバーグとクリームシチューやったけど、クリームシチューは好かんけん食べん。あとは全部食べた」と平然と答える。手術当日の夜は痛み止めが効いてぐっすり眠ったらしいが、ICUは退屈でテレビを持ってきてもらって見ていたらしい。翌朝痛みがあったものの、薬を飲んだら止まったらしい。ICUのテレビは無料だったので助かったと喜んでいた。まだ胸腔内ドレーンやら痛み止めのチューブやら酸素チューブやら点滴やら付けられているものの、普通に話して普通に動いている。バッグにしまったテレビカードを取り出そうと寝たままバッグの中をゴソゴソやっていたが見えなかったらしく、「ちょっと、手を引っ張って起こしてくれ」と言うので、父の手を握って引っ張った。父は握力も腕力も私より数段強く、しかも太っているので重い。おまけに私は左手首は腱鞘炎、右肩は1年以上前から痛めている。「痛い!痛い!お父さん、引っ張らんで!」とギブした非力な私は、ベッドのリクライニングボタンを押して上半身を起こさせた。

トイレに行くときはナースコールをして毎回看護師さんにきてもらってドレーンをつなげた機械のコンセントを抜いたり、酸素チューブの延長チューブを付けたりと手間がかかる。世話焼きな母は「ちょっと付いていた方がいいかな?」とたいして動けもしないのに病院に残ると言いだしたので、母を置いて私は福岡に戻った。数時間後に母を迎えに行った弟は手術前とほぼ変わらない状態の父を見て呆然としたらしい。

翌12月7日(水)の正午前、母から電話があった。「あんたが帰った後にリハビリしましょうって看護師さんが来てね、お父さんがチューブ付けて点滴スタンド押してナースステーションの周りをスタスタ3周くらい歩いてね。本当に昨日手術した人かな?ってくらいによく動くのさ。ちょっと驚いたよ」と報告してきた。その後、弟から「酸素以外全部のチューブが外された」と報告メールが届いた。もちろん出てきた食事はすべて完食しているらしい。父に電話してみると「一日中テレビ見てる。退屈だ」とこぼしていた。

翌12月8日(木)、またも弟から「大部屋に戻ったよ」と報告メール。酸素チューブはまだ付いているものの、本人はすこぶる元気らしい。なんなら週末にでも退院できそうなくらい元気ハツラツらしい。本人的には何もかも完治して100%復帰したような気分らしい。重要なことだが、肺がんは摘出できたものの、間質性肺炎はそのままである。今後ちょっとしたことがきっかけであっという間に増悪して命を落とすリスクはまったく減っていないのだ。

あまりに順調な回復ぶりに家族は全員驚いている。くも膜下出血の手術をした時もそうだった。「何の後遺症もなく発病前と同じ状態での社会復帰はおそらく望めない」と言われたのに、何の後遺症もなく3週間で退院したのだ。多分、週明け早々に退院するんじゃないだろうか?と思っている。母はすべてが予定より2日遅れだった。その時に医師から「高齢ですから、予定より遅れるのが普通なんですよ」と言われたのだが。同じく高齢の父は尋常ならざるスピードで回復して、正月はたらふくごちそうを食べるに違いない。「正月に病み上がりの父を連れて実家に行くのは神経遣う」と言っていた母だが、どう考えても母の方が「病み上がり度」が高い。

きっと今頃父は病院内のコンビニで「おやつ」を買い食いしているに違いない。

2016年12月5日月曜日

父、がんになる その5

手術直前になり「がんじゃないかも?」という驚きの展開になり、若干気が緩んだ我が家。手術前日は福岡から夫が来て鍋を囲んだ。もちろん、父は病院なので囲めないのだが。

手術当日、午前8時半前に病院に行くと、父の従姉妹2名がすでに来てくれていた。本人もいたって呑気。予定時刻に歩いて手術室に向かう。家族は院内専用PHSを渡され、待合室でコーヒーを飲みながら待つ。父の従姉妹と母がおしゃべりで盛り上がっている目の前でネトフリを見るのははばかられるので自重した。途中、交代で昼食をとったが、後半グループが昼食に出た直後、午後12時過ぎにPHSで呼び出されて執刀医から途中経過の説明を受ける。説明室にはモニタがあり、手術のライブ動画が絶賛放映中である。

私と弟はライブ動画に目を奪われてしまったが、執刀医の話では腫瘍は扁平上皮がんだったらしい。肺を見ると、長年の喫煙習慣でダメージが蓄積されていたため、左上葉部を全部摘出した場合の肺機能低下が予想より大きくなりそうなことと、悪性腫瘍はすっぱりと切除できたので部分切除だけで十分だと説明を受けた。「このまま部分切除でいいと判断しているのですが、ご家族がもし上葉を全て切除したいというご希望であれば開胸して切除しますがどうしますか?」と聞かれた。内心、随分ヘヴィな質問をぶつけてくるなーと思いつつ、弟も私も瞬時に「部分切除でいいです」と答えた。その後もライブ動画を見ながら待ちたかったのだが、待合室に戻らされた。

それから1時間半ほどしてICUに移った父との面会が許可された。ICUでは患者1名につき看護師2名が付いて術後管理をしてくれる。本来なら、母の時もICUで術後管理を行う予定だったが、たまたまICUに空きがなくて個室で私が付き添う羽目になったのだ。術前は軽口を叩いていた父だが、年齢相応の弱った高齢者に見えた。「お父さん、痛い?」と聞くと辛そうな顔つきで「今まで受けた手術で一番痛い。予想より随分痛い」と言う。部分切除で済んだと伝えると「じゃあ、退院したら現場に出れるな」と言って母に怒られていた。

術後の説明は特になく、すぐにICUを後にした。問題が起きなければ明日中に一般病棟に戻ってリハビリを開始するらしい。母は涙ぐみながら「きつかったやろ?また明日来るからね」と声をかけていたが、私も弟も「お母さんの時に比べると随分楽そうで良かった」と胸をなでおろした。母は私と違いエモーショナルな人なので、すぐに涙ぐむ。昨夜も夕食の後、もう40年も前に死んだひいばあちゃんの最期の看取りをうちでできなかったことを悔やんで泣いていた。

ひとまず今の段階でがんに対してベストと思われる対処は完了したわけだが、今後も親が病気になるたびに「調べる」、「話し合う」、「決める」を繰り返すのかと思うと若干気が重い。その一方で、先日近所の親戚が多系統萎縮症であることがわかり、しかも病状の進行が非常に早く、歩行も困難になっている姿を目にしたばかりなので、うちの両親のように「がんだけど早く見つかって切ったら治った(治る)」のは非常に幸運だと思った次第。QOLの低下は年齢による部分も大きいので、如何ともしがたいのだけれど。

明日の夕方には福岡に戻るが、今年は例年になく実家に帰った回数が多かった。先月からはほぼ毎週のように佐賀に来てるし。何気なく母と弟がご近所さんの家に新しいテレビが届いた話をしていて、それを聞いた夫がぎょっとしていた。田舎の情報網はアナログだけど感度が高いのだ。



2016年12月4日日曜日

父、がんになる その4

数々の検査の結果、肺がんの疑いが非常に濃厚ということで入院、手術となった父。12月2日に佐賀県立医療センター好生館に入院した。この日から私は仕事を休んで実家に戻っている。

仕事を休むかどうかはちょっと悩みどころだった。7年前に祖母の介護手伝いで実家に戻っていた数週間は仕事を休んでいない。取引先が1件だけで、1日3〜4時間やれば納期には間に合ったからだ。PDFの原稿をデスクに置いてWordにベタ打ちするだけだったのでノートパソコンでもできたのだが画面が手狭だったので、当時使っていたiMac G5を車に積み込んで実家でセットアップして仕事をした。ちょうど新しいiMacに買い換えたタイミングだったので、G5はそのまま実家の弟にあげた。今はWindowsでTradosを使い、オンラインCATツールを使う案件ではMacを使っている。辞書環境は極力統一させているし、ファイル(スタイルガイドなど)はクラウドに保存しているのだが、MacBookはブートしていないのでWindows環境をモバイルできない。クライアント数が増えていることと、至急案件が飛び込んでくることが多い時期でもあり、タイミングによっては対応できないので思い切って佐賀にいる間は仕事を休むことにした。今後仮にMacBookにWindows入れたとしても、普段はデュアルモニタで作業しているのに、ノートパソコンの画面だけでは老眼には厳しすぎるので、実家にモニタを1台置くことを検討中。

閑話休題。

入院した父は相も変わらず元気いっぱいで、受付で名前を呼ばれると走り出さんばかりの勢いで動き回る。荷物(キャリーバッグとショルダーバッグ)を一人で持って速足でどんどん歩いていく。誰がどう見てもついてきた母のほうが入院患者っぽい。

入院手続き後は麻酔やら輸血やらの同意書の説明と署名。入院中のスケジュール説明などあらゆる説明を受ける。午後4時前に執刀医からの説明。「カンファランス室」(カンファレンスじゃないのね)で大型モニタにレントゲン画像やCT画像を出しての説明、ホワイトボードを使って検査結果や術式の説明などが行われた。

実は入院前日、執刀医から父に電話がかかってきていた。父>母>私と伝言ゲームで聞いた劣化情報では「組織検査の結果でナントカっていう、昔で言うところの結核の菌が出てきて、感染する結核じゃないけど明日説明しますってよ」と謎の情報だけを伝えられて困っていたのだが、この件もクリアに説明を受けた。

3週間前に行った気管支鏡検査で採取した組織を培養した結果、抗酸菌が検出されたらしい。3週間前には検出されていなかったので、その時点では肺の腫瘍は悪性腫瘍の疑いが濃厚だったが、抗酸菌が検出されたとなると「非結核性抗酸菌症」の疑いが濃厚になってきたという話だ。ところが抗酸菌は薬物に対して耐性が強いらしく、7割ほどは薬物治療の効果が出ないらしい。悪性腫瘍である疑いも依然として否定できないため、手術でまず部分切除を行い、その場で簡易検査を行いがん細胞の有無を確認。がんでなければ部分切除のみで終了、がんであれば左肺上葉部を摘出することになった。執刀医の予測ではがんでない確率のほうがやや優勢らしいが、こればかりは実際に組織を見てみないと判断はできないらしい。

この説明の場には、手術に立ち会う研修医や看護師も同席していて、ちょっとした授業形式だったので面白かったのだが、暖房でぼーっとしていたためメモを取ることをすっかり忘れていた。父は途中から「聞いているフリ」だけで、最後に「頑張ります!」と宣言して終わった。

抗酸菌というのは土中に多く存在する菌らしい。10年ほどかけて結節を形成するらしい。父が庭仕事を趣味としていることと何か関連があるのだろうか?ただ、腫瘍マーカーでがんを示唆する数値が、しかもかなり高い数値で出ていたことはどういうことなのだろうか?まだ不明な部分が残っているのだが。もし抗酸菌症であれば、肺機能の低下も少なくて済み、術後の回復も早いので安心なのだが。

母が手術した時と違い、硬膜外麻酔を使って術後の痛みを軽減させるらしい。痛みの緩和方法は病院によって異なっているのだろうか?

ところで、説明の前に執刀医からも(私が送ったクレームに対して)深々と陳謝された。母は「なんでこの病院はいちいち謝るんだろう。確かに手際が悪かったけど、なんで?」とずっと疑問だったらしい。夕食の席で弟が「姉ちゃん、クレームメールに何て書いた?そうとう厳しいこと書いたやろ?こう毎回謝られるとカルテに『要注意』って書かれとるとしか思えん」と言い始めた。ここで初めて母にクレームメールを送ったことを話したら驚きつつ、「でもまああの対応は変だったしねー。それにしてもあんた、何て書いた?」と問い詰められている。

母の入院の時も今回の父の入院もそうだけど、執刀医が呼吸器外科部長という肩書きなのだけど、どう見ても私と同年代なのだ。ぼんやりと「そうかー、企業で働いていたら部長世代なんだなあ」とどうでもいいことを考えた。