2023年10月24日火曜日

ステージ復帰への道:道半ば編

10日ほど前、はじめてバンドメンバー全員が集まってスタジオ練習をした。夫がかき集めたメンバーなので、夫以外は互いに初対面である。まずは挨拶からなのだが、ここでちょっと気になったことが。

夫は「こちらドラムの●●君、こちらベースの▲▲君、それからこれが嫁です」と紹介した。冠婚葬祭でも毎度のことだが、今回も私は名前抜きで「嫁」とだけ紹介された。これは予想通りだったので、やや食い気味に大きな声で「ミユキです!よろしくー!」と自己紹介をした。それなのに、これも半分予想通りというか、誰も私を名前では呼ばないのだ。あろうことか「こっち」とか「そっち」とか、指示代名詞で呼ぶのだ。私の中のヤンキーが「お前ら、そこに正座せえ!」と暴れまくったのは言うまでもない。

その後、どうしてもモヤモヤがおさまらずTwitter(現:X)でアンケートをしたのだが、夫に「嫁(妻)」とだけ紹介され、名前は紹介されないという人が半数以上だった(回答してくれたのは8人だけだったが、40代以上の夫婦はどこもこんな感じなのかも)。

閑話休題。さて、肝心の練習の方だが、私は思ったよりデキが良かった。相変わらずギター2人の我が強すぎるせいで音量のバランスが取れないという問題はあったものの、天性のリズム感の持ち主である私がリズム隊に合わせることができたのはひとえに年の功ではないだろうか。

バンドをやっていた高校生の頃と違い、おばさんになった私は、少なくともこの5年ほどは月1くらいのペースでジャンルやプロアマ問わずライブやコンサートに足を運んでいる。たくさんの生演奏を聴いてきてたどり着いた結論は、「ボーカルとギターが下手でもドラムとずれていなければ問題なし!」である(暴論)。ドラムとずれないためには耳だけでなく目も大事なのだという新たな気づきも得た。ということで、私はドラマーのN君とベースのF君をガン見しつつ、「ガールズバンド出身の私としては、おっさんとバンド組むの不本意だな~」などと失礼なことを考えながらギターを弾いた。

こうして2時間にも及ぶ初回バンド練習を終えたが、意外なことに問題は私ではなく夫であった。エフェクターやアンプの設定がしっくりこないまま時間が過ぎ、集中力に欠け、他のパートを聞けていなかった。その結果、リードギターだけが悪目立ちしてしまっていた。その様子を見ながら、「あー、40年前の私と同じだ」と思った。おそらく「上手に弾きたい」という欲が強すぎるのだと思う。「私のギターどうだった?」と聞くと、「あ? 聞いてなかった」と言われ、またしても私の中のヤンキーが大暴れしたのは言うまでもない。

現段階でのバンドとしての完成度は60%くらいで、私のギターについてもドラムに遅れなかったというだけで、課題山積である。初対面ということもあって、様子見モードだったのだが、夫のギターに気圧されている感が強かったので、やはりストラトキャスターではなくレスポールにしようと決めた。こうして、引き続き我が強いままで先が思いやられるが引く気は一切ない!

夫はその後、エフェクターとアンプの設定を決めるためだけに2時間スタジオに入った。私も付き合ったのだが、正直なところ「練習のための練習」に飽きてきた。あと、2時間立ってギターを弾いたため翌日は朝から腰痛で、筋トレの必要性を痛感した。

2023年9月30日土曜日

ステージ復帰への道:スタート編

 突然だが、12月に夫が所属していた軽音サークルのライブに出演することになった。夫が裏で手を回して関係者(大学軽音サークルの仲間)および非関係者を説得してこぎつけたわけだが、早い話、夫自身が出たくて熱心に動いたようだ。ところが、自分だけ出たのでは私に来る日も来る日もイヤミを言われることは火を見るより明らかだ。前回は友だちのバンドに急遽参加させてもらった夫だったが、今回は私を出演させるために自分のバンドを作ることにしたようだ。

まず、足りないパートはベースとドラムとボーカル、つまりギター以外全部足りない。学生時代に一緒に組んでいたメンバーは全員が遠方に在住。そこで、福岡在住の友人にヘルプを頼んだらしい。ベーシストは同じ大学でハードロックバンドをやっていた同級生。ちなみに、今回演奏するのはルースターズ2曲とシナロケ1曲の計3曲。ベーシストは「もう10年くらいベース弾いてない」と言いつつも引き受けてくれた。ドラマーは中学の同級生で、普段はインストバンドで叩いているらしい。何度か動画を見せてもらったのだが、ほぼプロの腕前である。

ボーカルは見つからなかったため、夫がルースターズを、私がシナロケを歌うことになった(もちろん歌詞はうろ覚えだ)。情けないが、私は弾き語りができないので、歌うときはギターはお休みしてイントロと間奏部分だけ演奏に参加する。

気がかりなのは、私に課されたパートがサイドギターという点だ。バックビートで弾き始めたはずなのにいつのまにかダウンビートになってしまうという天性のリズム感を持つ私がサイドギターというのはかなり厳しい。「とにかくドラムを聞いてドラムに合わせて! 音数減らして音量抑えめで」と言われているのだが、リズム音痴をなめてはいけない。聞いて合わせられるのなら苦労はしないのだ。

同じ家に住んではいるが、普段は各自別の部屋で練習している。一度だけ生音で軽く合わせてリフパターンの確認をしただけでひと月が過ぎた。いくらロックが生ものとはいえ、この私がぶっつけでやるのは無理が過ぎるというものだ。そこで夫と私だけでスタジオに入り、iPadをPAにつなげて流した曲に合わせて弾いて(&歌って)みた。

全然悪くなかったのだが、リードギターしかやったことがないためか私も夫も我が強すぎる。私はどうしてもサイドギターに徹することができない。バッキングの音がでかすぎるだの歪ませすぎだの言われても、「だって私はハードロックが好きだからね」と一蹴。確認用にスマホで録音したのだが、やっぱり私のビートが微妙にずれている気がした(どうしてもポップスのビートになってしまう)。二人だけでやっていてもらちがあかないので近日中にバンド全員でスタジオ練習をする予定だ。

普段は月に2回、スタジオに入ってギターのレッスンを受けているのだが、バンド練習はレッスンで入るスタジオとはまったく違う楽しさがある。上手に弾けなくても間違えても全然OK(いや、たぶん私以外はOKではないな)、ノリだけで突っ走るのはこのうえなく気持ちがいいのだ。本番では全力で突っ走る予定なので、その姿を見て元ガールズバンドの女子たちが「来年は私も出たい」と思ってくれたら何より嬉しい。

というわけで、いま人生で一番熱心にギターを練習している。同じバンドでキーボードを弾いていた友だちから「あのときもこのくらい練習してくれれば良かったのに」とチクリと言われたほどだ。面目ない。





2023年9月28日木曜日

Extremely Extreme

9月26日、アメリカのロックバンドExtremeのライブを観るために大阪に遠征してきた。Wikipediaによると、Extremeはグラムメタル、ファンクメタル、ハードロックに分類されている。私にとってギターのヌーノ・ベッテンコートは神の一人である。

今回の来日公演については、たまたまネットで目にして慌ててチケットを取った。残念なことに福岡での公演がなく、最寄りの大阪公演を選んだ。チケット代は1Fスタンディングで13,000円、2F指定席で14,000円。

コロナ禍前の2019年、Zepp Fukuokaで開催されたGeneration Axe以来の生ヌーノである。結論から言うと1ミリも見えなかった。ライブハウスのフラットなフロアでは高身長の人間が有利に決まっているのだ。私は156cm。男性が前にいただけで視界の80%はブロックされる。先日の鮎川誠追悼ライブでもプレーヤーの頭しか見えなかった。ただ、そのときはキャパ200名ほどの小さなライブハウスだ。なんばのZeppはスタンディングでのキャパは2,000名超。東京の通勤電車並みの超満員だったうえに、私の前には背が高い男性ばかり。人の頭の間からちらっとでもヌーノの姿が見られたら……という願いも虚しく、メンバーの姿は一切見えなかった。そればかりかステージ後方のバックドロップすら見えなかった。見えたのは天井の照明だけ。

それでもとても楽しいライブだった。ベース側にいたせいかベースの音がやたら大きく聞こえたのだが、ヌーノのギターは最高だったし、MCも愛嬌たっぷりだった。ボーカルのゲイリーは3曲目くらいまでイマイチ声が出ていなかったようだったが、まあ、ウォーミングアップということで。

公演中のスマホ撮影は特に禁止されておらず、賛否両論あるだろうが、今回のように当日1ミリも見えなかった私などは、SNSにアップされた動画でヌーノの変わらぬさらさらヘアを愛でることができた。

ヌーノは来日中に誕生日を迎えて57歳になったのだが、「57歳になるとみんなわかると思うけど、座れるとほんと助かるよ」と言いながら椅子に座ってのアコギタイム。大ヒット曲『More Than Words』は全員で大合唱。私は復習の甲斐なく歌詞がうろ覚え。それでもヌーノと一緒に歌うという念願が叶った。

いつも思うのだが、大阪の人は本当にハードロックやメタルとの親和性が高い気がする。関西出身のハードロック、メタルバンドも多い。私のギターアイドルの一人、高崎晃も大阪出身だし、予想通り会場に来ていたらしい。アンコールの後にMV用に客席を撮影するから、みんな目一杯はじけてくれと言われると、全員が全力で応えるという熱さ。福岡では考えられないほどの熱さだったが、ハードロックやメタルはこうであってほしい。しかし、私もヌーノと同い年なので終わった後はグッタリだった。次回があれば、2F指定席にしようと心に決めた。

ライブ遠征の際は毎回、会場からできるだけ近いビジネスホテルを選んでいる。部屋の快適性にはこだわらない。今回もZeppから近いホテルの中で一番安いホテル(ホテルソビアル なんば大国町)を予約していたが、幸いなことに大当たりだった。オープンまもないホテルで、ツインの部屋は十分な広さ、トイレと浴室は別。浴室は広々として快適だった。バスタブ付きの部屋はごく一部だけのようだが、大浴場もある。24時間利用可能なドリンクバーもある。ブッフェ朝食は品数こそ多くないものの、とてもおいしかった。これで1室2名で約1万円(じゃらんポイントによる割引があったとしても、昨今のホテル事情を考えるととても安い)。

今回の移動は飛行機にした。新幹線より断然安かったからなのだが、飛行機はいろいろと面倒が多い。我が家は駅から遠いので空港までは車で行く。空港までは約8kmなのだが、ラッシュアワーと重なると車で1時間近くかかることもある。駐車場も事前に予約しておかねばならない。諸々の手間を考えると新幹線の方が楽かもしれない。とはいえ、アプリなどの進化でチェックインから搭乗までの一連の流れがとてもスムーズになっていて驚いた。心配性の私は「もしスマホのバッテリーが切れたり、落として割ったりしたらQRコードを表示できずに飛行機に乗せてもらえないのでは?」と気が気ではなかったため、現地での乗り換えは全部夫に調べさせた。

フルでアップした人がいる! ありがとう!

ライブの録画について思うこと:
アメリカツアーのライブもフルでアップされている動画がたくさんあって、それについては賛否両論、今後も議論は続くと思う。「動画が出るのならわざわざ高いチケット買う必要はないのでは?」と言う人もいるかもしれない。だが、音楽は生で聴いてこそなのだ。配信や映像では伝わらないものにお金を出しているのだ。

2023年9月14日木曜日

はじめてのスライダーズ

先日、ザ・ストリート・スライダーズ(以下、「スライダーズ」)のライブに行った。夫はスライダーズの大ファンなのだが、私はよく知らない。車のHDにベストアルバムが入っているので、運転中にたまに、しかも受動的に聴く程度。このベストアルバム以外は聴いたことがない。バンドメンバーのことはまったく知らない。100%初心者である。

一方、夫にとってスライダーズは「最も好きなバンドのひとつ」であるらしい。スライダーズが再結成すると聞いたときの夫の反応は、20数年前にレイジーが再結成すると聞いたときの私の反応と同じだった。トリビュートアルバムの爆オン試聴会に行った後の夫はさらに熱が高まり、ツアーが決定してからはずっとソワソワしていた。

スライダーズをよく知らない私は、よもや「チケット争奪戦」になるなど想像もしておらず、「福岡ならチケット余裕で買えるやろ?」とナメていた。運良く、一発で福岡公演に当選したのだが、チケットを入手できずに涙を呑んだ人も多いらしい。実際に、当日の会場入り口前で「チケットゆずってください」と書いた紙を持って立っている人を何人か見かけ、「まじで?!」と驚いた。

私が欠かさず足を運ぶのはLOUDNESSとシナロケなのだが、そのどちらともお客さんの雰囲気が違っていた。なんというか、ちょっと都会的な雰囲気なのだ。実際、遠方から来ている人も多そうだった。会場がキャナルシティ劇場だったことも、「いつも行くライブと違う!」感を強めていた一因だろう。

開演時間になると会場全体がソワソワしはじめる。早くも立ち上がり拍手をする人、歓声を上げる人、それにつられて会場全体が興奮に震えていた。

メンバーが登場すると、観客が一気に弾けた。予習ゼロで参加したやや引き気味の私に対し、夫は最初から最後までノリノリで熱狂していた。

帰りの車中でも夫はご機嫌で、いろいろと解説してくれた。ハリーのギターはオープンチューニングだから曲ごとにギター変えるんだとか、昔は笑顔すら見せなかったのにすごく愛想が良くなっていてびっくりしたとか。

そんな夫とは対照的に、私は最後まで引き気味で終わってしまった。なんというか、テンポが私の好みに合わなかった(遅すぎる)。夫には「あー。やっぱり、キミの好みとは違うやろなあ」と言われた。その後も夫は家に帰り着くまで、いや帰り着いた後もずっとスライダーズの話をしていた。私がレイジーやLOUDNESSのライブ後にずっと喋っているのと同じだ。

熱く語りまくる夫を横目に、ふと「キャナルシティ劇場の前にいた人に私のチケットゆずってあげればよかったかな?」と思った。とはいえ、チケット転売対策か、入場の際に抜き打ちIDチェックが行われていたのだが。

ところで、コロナ前と比べるとライブのチケットがずいぶん値上がりしている。私の観測範囲では2~3割アップくらい。海外のミュージシャンともなると、輸送費の高騰などもあって倍近くなっているのではないだろうか。夫の友人がクイーンとアダム・ランバートのライブに行くらしいが、チケットが25,000円だったらしい。私ら夫婦は今月末にEXTREMEの大阪公演に遠征するのだが、そのチケット代(13,000円)を聞いた夫が何度も「ねえ、ヌーノ*はそのチケット代で大丈夫なん? ペイできるん?」としきりに案じている。ヌーノの心配よりも、大阪遠征がうちの家計に与えるダメージを案じて欲しい。

*EXTREMEのギタリスト、ヌーノ・ベッテンコート。私が最も好きなギタリストのひとり。

2023年9月8日金曜日

新型コロナ その後

新型コロナウイルスの感染から約3週間が経過した。2週間前にブログを書いたが、その後の様子を備忘録代わりに書き留めておく。

まず、2週間前の状態は、①たまに軽い咳が出る、②味はまったくわからない、③においもまったくわからない以外はいたって元気だった。味とにおいがわからないので、普段は食べない豚肉をもりもり食べていた。同時に感染した夫の当時の症状は、①ちょっとだけ嗅覚が鈍り、②ちょっとだけだるい程度と、夫婦そろって軽症で済んだことに安堵していた。

ところが、それから1週間ほど経ったころ、なぜか私の咳がひどくなった。特に朝晩がひどい。一度咳が出るとなかなか止まらないので、今も外出を控えている。病院で処方された咳止め薬がなくなった後はアネトン咳止め液を服用したが全然効かなかった。アネトンの錠剤も同じ。その後、メジコンせき止め錠Proに変えたが効果はあまり感じられず。明け方4時とか5時に咳き込むと目が覚めてしまい、もう眠れなくなる。咳のせいで寝不足が数日続いた。ドラッグストアの薬剤師さんに相談すると、パブロンSせき止めをすすめられた。これが一番効いた気がするが、感染からの日数を考えると回復の時期に重なっただけかもしれない。

コロナの症状と同時に肩の痛みも悪化していたため、いまだに解熱鎮痛剤のお世話になっている。病院で処方された解熱鎮痛剤はカロナール。肩の痛みで処方されていたのもカロナール。解熱効果は普通。頭痛にはあまり効かず、肩の痛みにはよく効いている。

しかし、ルースターズの歌ではないが、来る日も来る日も錠剤ばっかり飲み続けるのもどうかと思い、梨を買ってきた。梨には咳を鎮める効果があるというツイートを目にしたからだ。梨を小さく切って鍋に入れ、はちみつを加えてコンポートにしてみた。水っぽい梨だったが、咳が少しだけ治まったような気がしないでもない。単に、回復の時期が来ただけなのだろうが。

味覚と嗅覚に関しては、味覚は7~8割、嗅覚は半分くらい戻ったと思う。私は子供のころからにおいに敏感で、そのせいでかすかな異臭や香料もストレスになっていたのだが、嗅覚が鈍ったおかげで日々の暮らしがとても楽になった。嗅覚はこのままでもいいなと思っている。味覚が万全ではないので外食はしていない。料理については元から味見をあまりしないバカ舌なので、コロナの影響はあまりないような気がする(家族は迷惑しているかもしれないが)。

夫の方はというと、感染後2週間あたりから倦怠感が増しているらしく、ギターも弾けないほど体がだるいらしい。夫は元から風邪を引くと倦怠感が強く出るタイプである。私は風邪を引くと咳が長引くタイプである。体感として新型コロナは普通の風邪の1.5~2倍くらいの威力だろうか。

困ったことに、新型コロナと肩痛が重なってしまったことで運動不足に拍車がかかり、3週間で2kg近く太ってしまった。ようやく気候も秋めいてきたことだし、そろそろウォーキングを再開しようと思っている。


『気をつけろ』ルースターズ


2023年9月7日木曜日

肩が痛いのだ

「肩が痛い」というと、ほぼ100%の確率で「五十肩? 私も去年やったよ」とか「半年くらい続くよ」とか言われるのだが、私の肩はもうかれこれ30年ほど断続的に痛いのだ。

まだ新人OLの頃「肩が痛い」と何気なくもらしたところ、隣の席の先輩が「整骨院に行っといで」と毅然とした口調で助言してくれた。そのときに初めて「肩が緩い」と指摘された。とはいえ、日常生活にはさほど支障がなかったので数回通っただけで行かなくなった。

10数年後、テニスをする度に肩がすっぽ抜けるような感覚があり(抜けてはいない)、その後2日ほど軽い痛みというか違和感が続いた。整形外科を受診するとやはり「肩が緩い」と指摘され、筋トレを勧められた。

そして、40代になってランニングを始めてからは定期的にジムに通って熱心に体を鍛えるようになり、肩の痛みも出なくなった。

ところがである。50代に入るやいなや膝の半月板損傷でランニングができなくなると運動量が激減。この頃からテニス後の肩の痛みが本格的にぶり返してきた。ジムで筋トレをしながら、サーブは全力で打たないひょろサーブに変えた。

そこへきてのコロナ禍である。ジムに行くことすらやめてしまい、筋力は衰える一方である。今年6月、痛み止めが必要なほど悪化して近所の整形外科を受診。レントゲンを見た医師が「肩がね、緩いんですよね。ちょっと押さえますよ」と腕の付け根をぐいと押さえると上腕骨骨頭部がぐりんと動いた。その瞬間医師は「あ!!」と声を上げた。思った以上に緩かったらしい。

週に1、2回リハビリに通い、インナーマッスルを鍛えることになった。幸い、痛みは1週間ほどで治まり、テーピングをすればテニスも難なくできた。ところが、二拠点生活をしているとリハビリに行けない週がある。1か月もするとまた痛みがぶり返してきた。さらに強力になって。「一度詳しい検査を受けてみてはどうか? 手術についても相談してみては?」と他院を紹介され、肩の専門医に診てもらった。専門医によると、肩関節内部に損傷がある可能性が高く、損傷部位を特定するには造影剤使ったMRI検査が必要らしい。肩関節の中に造影剤を注射するのが怖くて検査を拒否する人もいるらしい。

案の定、注射は思わず声を上げるほど痛かったが、ほんの数秒のことなので難なくクリア。造影剤を入れた状態で医師が腕をいろんな方向に動かして都度X線撮影。腕を挙げたり、ひねったり、引っ張ったり。麻酔と鎮痛剤を注入しているとはいえ、かなり大胆に動かされたため、麻酔が切れた後の痛みはここ数か月で一番だった。

さて、本番のMRI検査である。脳の造影検査を受けたときにひどい吐き気が続いたことを前もって伝えておいたので、安全のために車椅子で検査室まで運ばれた。ところが、検査台に拘束されて筒に入った途端、恐怖と息苦しさに襲われ、緊急ボタンを押してしまった。痛みを耐えて造影剤を入れたにもかかわらず、ほんの数秒で中止となってしまった。

脳に未破裂の動脈瘤がある私は、6年ほど前から定期的にMRI検査を受けている。自分が閉所恐怖症だと思ったことはないし、毎回無事にクリアしてきたのだが、前回はうっすらと「狭いところちょっと嫌だな……」と感じた。今回は唐突に「狭いところ怖い!」という強い恐怖心が出てきてしまった。コロナ罹患後と睡眠不足で体調が万全でなかったのかもしれないが。

待合室でぐったりしていると、「もう一つオープン型のMRIがあるんだけど、そっちだったらいけるかもしれない。見てみる?」と看護師さんが提案してくれた。若い技士さんも励ましてくれて、なんとかMRI画像を撮影できた。筒状のMRIに比べると画質は劣るらしいが。

肩の痛みの原因は、①生まれつき関節が緩く、②前側の靱帯が伸びていて、③関節内部に損傷があること(関節唇が一部剥離)だった。治療の選択肢は、引き続きリハビリでインナーマッスルを鍛える保存療法と内視鏡で損傷部位を修復する手術の2つ。手術した場合、リハビリは半年ほど続き、完全復帰には1年ほどかかるという。これは左腕を骨折したときと同じタイムスパンだ。

現時点では保存療法を選択することにした。今年の12月と来年の3月、ライブに出演することが決まっているからだ。手術をすると1か月は車の運転ができなくなる(骨折したときは2か月運転できなかった)。ということは、高齢の母が助けを必要としても、私は何もできなくなるのだ。内心、「そっちの方が楽なのでは?」と思ったが、とりあえずリハビリを頑張ることにした。痛みさえ治まればテニスをしても問題ないらしい。どうやら私のQOLはテニスとギターが鍵のようだ。

ギターといえば、先日、初代師匠に「今ゲイリー・ムーアやってるんだよ」と話したら、「じゃあ、筋トレもしないとね」と言われた。「どゆこと??」と尋ねると、「ゲイリー・ムーアってすっごい筋トレしてるからムッキムキだよ」と教えてくれた。もしや、ゲイリー・ムーアも肩が緩いのでは?(たぶん違う)

筒型とオープン型のMRIの違い
引用元:Cleveland Clinic


2023年8月25日金曜日

コロナあります

新型コロナウイルス感染症に感染してしまった。どこで感染したかは定かではないが、だいたいの見当は付いている。なぜなら、私は普段ほとんど家にこもっているからだ。出かけるのはスーパーくらい。しかも無言で買い物をしてセルフレジでキャッシュレス決済、無言で店を後にする無愛想な客に徹している。

実家に高齢の母とがん患者の弟がいる私は、昨今の感染者増加を受けて、屋内施設ではマスクを着用していた。しかし、手洗いやうがいがちょっとおろそかになっていたのは確かだ。反省しても遅いけど。

発症から現在までを時系列でまとめてみる。診察してくれた医師によると、症状が出た日を0日目とカウントするらしい。

0日目。朝起きた後「喉がちょっとイガイガするなあ」と思った。扇風機付けっぱなしで寝ていること、よく口を開けて寝ていて喉がガラガラになることがあるのでスルー。ちなみに、このとき私は実家にいた。高齢の母と肺がんの弟と一つ屋根の下にいたわけだ。昼過ぎ、ちょっと鼻がムズムズし始めた。「この部屋掃除してなかったな」くらいでスルー。この日は1日中部屋にこもってギターを弾いていた。夜、何度か咳が出た。ここで嫌な予感がよぎる。熱を計ると平熱。福岡にいる夫に「風邪のような症状はないか?」とメッセージを送ると「喉がイガイガする。熱はない」と返事が来た。

私はこれまで幾度となく「感染した場合の自宅療養プラン」を脳内でシミュレートしてきた。なかでも重要なのが食糧の確保。幸い、実家は米だけは潤沢にある(米しかないとも言える)。ネットで読んだコロナ体験談で私をビビらせていたのが「喉が切り裂かれるような痛み」「唾を飲み込むだけで喉に激痛」「目が開けられないほどの頭痛」だ。深夜近くになって、ひとけのなくなったコンビニでゼリー、そうめん、アイスクリームを買い込んできた。弟にSMSで「コロナかもしれない。今から隔離開始する」と通知。この時点で体温は36.9度。微熱にも至っていない気がするが、すごく嫌な予感がしていたのだ。翌日やる予定だった仕事を午前2時近くまでかかって訳して納品。メールの自動返信を設定。

1日目。起床後すぐ検温。38.1度。夫も発熱したらしい。すぐさま最寄りの発熱外来を予約。この時点で出ている症状は軽い咳、軽い鼻水、熱、節々に軽い痛みだけである。発熱外来では車に乗ったまま検体採取、電話で症状を聞かれ、検査結果も電話で伝えられた。ストレス性胃炎で受診していた病院だったので、先生も私の事情をだいたいご存じで「今ご実家ですか? じゃあ、お母さんいらっしゃいますよね? あなたは大丈夫だと思うけど、お母さんの方を隔離した方が安心かもしれないですね」と言われた。5日目までは他の人にうつす可能性があるので外出を控えるよう指示された。

家に戻るとまず車の中を消毒。母に「コロナだったから私に近寄ってはいけない。話しかけるのも控えてほしい。私はいないものと思って生活してくれ。何もしてくれなくていいし、お母さんにできることは何もない!」とだけ言い部屋にこもった。夫も陽性だった。

この日は「普通の風邪と同じ」状態で、起きているのはだるいが食欲も旺盛、喉の痛みがないので何でも食べられた。解熱剤はよく効いたのだが、薬が切れると39度近くまで熱が上がる。特に夜になると熱が上がる。熱が出ると猛烈にお腹が空く。味覚異常なのか、カップ麺が異様に塩辛く感じられて食べるのに難儀し、結局ふりかけをかけただけのご飯をもりもり食べた。母が何度も「ご飯は? お風呂は?」と話しかけてくる。ドアに「開けるな。入るな。風呂は入らん」と書いた紙を貼った。

2日目。起床時の体温は37.5度。症状に頭痛(厳密には目玉が痛い)が加わった。できるようなら仕事をしようと思っていたのだが、目が痛くてモニターを見ていられない。アセトアミノフェンを処方されていたのだが、頭痛に効かない。食欲は変わらず旺盛。母が何度も「ご飯は?お風呂は?」と聞きに来る。貼り紙効果ゼロで、これには心底困った。常時窓をちょっと開けて扇風機を回して換気はしているとはいえ、私の部屋にはウイルスが浮遊しているのだ。こういうときにショートステイに預けられたら安心なのだが、家族がコロナに感染していたら受け入れてはもらえないだろう。普段は、自分の車で実家に来ているのだが、今回は夫と一緒に来て、夫が乗って帰っていたので身動きが取れない。車さえあれば福岡まで運転できるくらいの状態なのだが。

ちなみにお風呂については、浴室の使用時間帯を家族と大幅にずらすため、昼前にシャワーを済ませ、浴室と脱衣所の窓を開けて換気扇と扇風機をブンブン回して換気していた。

夕食はデリバリーのカレー。ここで味覚と嗅覚が死んでいることに気付く。エッセンシャルオイルをくんくん嗅いでみたが、何のにおいもしなかった。においに敏感な私にとってはまことに驚きの感覚だった。仕事はボリュームの少ない定期案件だけ受けた。

3日目。起床時平熱。他の症状は前日と同じ。頭痛が治まらない。朝早くに夫から「今から迎えに行くから」とメッセージ。バタバタと荷物をまとめる。とにかく、母が大きな問題だったのだ。感染のリスクを正しく理解できていないのか、一応マスクはしているものの鼻は出ているし、「お母さんにうつったら、お母さん死ぬよ?」と言っても「もう死んでもいいもん」と卑屈パワー全開だ。私が懸念しているのは、母ではない。弟なのだ。こう言っちゃなんだが、私だって母が死ぬのは構わない。ただ、これまでのがん治療が想定しうるベストを上回る効果を上げている弟を犠牲にするわけにはいかないのだ。

母がいるリビングのドアを10㎝ほど開けて「お母さん、帰るから。また来月来るよ」と言うと、見送りに出ようとしたので「動くな!」と制して急いで家を出た。

自宅に戻ってイブプロフェンを飲んだらあっさりと頭痛が止まった。仕事は定期案件だけ、30分ほど。寝ているときに咳が出るとなかなか止まらず目が覚めてしまう。

4日目。平熱。夜中何度か咳き込んで目を覚ましたうえに、午前4時半ごろ猛烈な空腹感で起きてしまう。トーストとご飯を食べて(炭水化物しか受け付けない)5時前から仕事をした。味覚と嗅覚は死んだままだ。何を食べても味がしない。味がわからないから酒を飲む気もしない。考えようによっては健康的だ。

こういう具合で、私は「ただの風邪」とまったく変わらず、ごくごく軽症で済んだ。本当にコロナだったんだろうか?と疑いたくなるほどだ。ちなみに、夫はまだ発熱が続いており、喉の痛みがひどくなっているらしい。

今回の騒動では、母には本当に手を焼いた。不幸中の幸いというか、私は母と微妙な関係のため、あまり話をしない。二人でご飯を食べていても普段からほぼ無言だ。食べ終わると食器を流しに運び「洗っといて」と言うだけ。この希薄な母娘関係が感染防止に大きく寄与した。弟が残業続きだったのも幸いした。ただ、希薄な母娘関係なのに、病気の娘に何とかして構いたいという母の承認欲求が大きな障害となった。

今後への課題として、やはり母がどんなに拒否しようともショートステイを体験させることが不可欠かもしれない。要介護1になったこともあって、ケアマネさんや通所リハビリの担当者さんも説得してくれたのだが、本人が頑として拒否するのでしばらくは介護サービスの追加を見送ることにしていた。それでも、私のぎっくり腰や新型コロナ感染でまず問題になったのが母だった。

それにしても、嫌がる年寄りをショートステイに行かせる良い方法はないものだろうか? この件に関しては毎回言い合いになってしまう。叩いて言うことを聞かせたら楽かなあ?と頭をよぎる。そして、私を叩いて言うことを聞かせていた母は楽だったのかなあ? 一瞬でも躊躇しなかったのかなあ? 罪悪感とかなかったのかなあ?と思う。


2023年8月17日木曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー 番外編

 2023年8月14日、福岡のライブハウスで鮎川誠追悼ライブが開催された。会場には約200人のファンが詰めかけ、超満員となった。まこちゃんとゆかりのあるゲストが出演したライブは2時間半にも及び、ローカルニュースでも取り上げられた。

「いつもと同じようにこうやって向かってるけど、ステージにまこちゃんは出てこないんだよね」と話しながら会場へと向かった。ライブハウス前にはいつもの倍くらい人が並んでいた。ほとんどの人がシナロケやサンハウスのTシャツを着ていた。私も去年買ったサンハウスの久留米限定版Tシャツを着用して臨んだ。

ステージの前面にはスクリーンが張られ、シナロケのロゴが投影されていた。開始予定時刻を5分ほど過ぎたところで、いつものオープニングSE、ロケット発射のカウントダウン開始。カウントがゼロになった直後、スクリーンに登場したのはまこちゃんだった。いつもと同じように『バットマンのテーマ』から始まった。まこちゃんのあの笑顔が私たちを迎えてくれた。

そしてスクリーンが降りると、シナロケのメンバー(ボーカルでまこちゃんの三女ルーシー、ベースの奈良さん、ドラムの川嶋さん)とサポートギタリストの澄田健が登場。澄田健はブラックビューティーを高々と掲げた。

ブラックビューティーをどうするのか?とヤキモキしていたファンも多かったと思う。長女でモデル・画家の陽子ちゃんは「レスポールもお父さんと一緒に棺に入れたかったけど……」と言っていたし、それが可能であればそうしてほしいと私も思った。まこちゃん以外が弾くくらいなら、もう音が出なくなってくれたほうが……とまで思ったのだ。

しかし、そこには別のギタリストの体を借りて、咆哮を上げるブラックビューティーがいた(「あった」ではなく「いた」のだ)。ライブの1週間ほど前に澄田健がTwitterでブラックビューティーのことをつぶやいていた(こちら)。

澄田健のギターはまさにGoing His Wayだった。慣れないギターで手こずったかもしれない。それでも彼は、まこちゃんのプレイに寄せることをせず、あくまで正面からがっぷりと組んでいたように見えた。暴れるブラックビューティーと徐々に和解し、大音量で澄田健のギターを轟かせ、その音に私は圧倒された。

これまでは傍らに立つ父に守られていたルーシーが全力でバンドを引っぱり、堂々としたパフォーマンスを見せてくれた。そこにはシーナもいないし、まこちゃんもいない。でも、そこにはシーナもいたし、まこちゃんもいた。涙は止まらないのに、笑顔がこぼれてしまう。そんなハッピーなライブだった。

8月16日、全国に先がけて上映が始まった『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』を観に行った。お盆休み明けの平日だったが、思ったよりお客さんが多かった。

元は福岡のテレビ局が制作した30分のドキュメンタリーだったが、その後60分の拡大版が全国ネットで放送され、まこちゃんが亡くなったことを受けてさらに90分に拡大したバージョンが映画館で上映されることとなった。映画版には、ゆかりのあるミュージシャンのインタビュー映像も追加されていた。決して威張ることのない、優しく楽しいまこちゃんとの思い出が語られた。そしてそれは、私の中に残るまこちゃんの思い出と重なった。

映画館を後にしながら、「もうまこちゃんはいないんだ」と強い喪失感に襲われた。一昨日のライブでは感じなかった感覚だった。

こうして、まこちゃんの初盆を終えたわけだが、まこちゃんがいなくまっても世界はやっぱりぐるぐる回り続けている。2018年にまこちゃんの言葉を聞いて「ギター弾かねば!」と押し入れからギターを取り出した私は、今年12月、40年ぶりのライブ出演が決まった。しかも、まこちゃんが立ったのと同じステージだ。あのとき、シナロケのライブに行かなければ、私のギターは今も押し入れにしまい込まれたまま、私も仕事や介護に追われてすり切れるだけの人生だったのだ。

まこちゃんは甲本ヒロトの人生を変えたけど、私の人生も変えたのだ。

ヒロトが「あのレスポール、生き物だよ」と言っていて、「あ、この人も同じように感じたんだ」と思った。まこちゃんのブラックビューティーには意思があった。生きてる限りロックするって。

2023年8月2日水曜日

習い事で乗り切る2拠点生活

 3年前から始まった2拠点生活。当初は福岡の自宅にいる期間の方が長かったのだが、母がどんどんヨボヨボになり、弟ががんになり、じわじわと実家にいる時間が増えてきた。そして今年に入ってからは、実家にいる期間の方が長くなっている。

母に対して複雑な思いを抱いている私にとって、これは想像を絶するストレスである。そこで、実家暮らし期間を少しでも楽しく過ごせるよう2月から習い事を始めた。ギターだ。

高校生の頃にバンドでギターを弾いていたとはいえ、腕前はギター歴2か月程度。一通りのことはなんとなく知ってはいるが、どれもできない。メジャーコードくらいはわかるが、セブンスコードはわからない。運動神経に大きな難を抱えているので、右手と左手が別の動きをマスターするまでに人の3倍くらい時間がかかる。一度に1つのことしかできない。老眼で手元が見えない。すべてにおいて、とにかくたどたどしいのだ。

まず、ロックンロールのクラシック『Johnny B. Goode』を教えてもらった。50分のレッスン時間でできたのはイントロ(約20秒)だけだ。それも、家に帰り着いた頃には一部忘れている。その後のレッスンでは苦手克服のために苦手なことを重点的にやることになった。選曲はすべて師匠に任せることにした。自分で選ぶと自分が弾けそうな曲しか選ばない。これでは弱点は永遠に弱点のままだ。

苦手なパートをワーッとでたらめに弾いてごまかすタイプの私に課せられた課題は、「スローテンポの泣きのギターをマスターすること」となった。スローテンポはごまかしがきかない。毎回「そこ、半音上がりすぎ」とか「タイミング半拍遅い」とか指摘されている。現在はゲイリー・ムーアの『Sunset』を練習中だ。半年のレッスンの甲斐あって、今までずーっと苦手だったチョーキングとビブラートをマスターした。横で聞いていた夫が「あ、チョーキングがちゃんと1音上がってる!」と驚いたほどだ。

実家で闇落ちしそうなときはギターを弾く。アンプにつないでガンガンに音を出す。指が疲れて動かなくなるまで弾けば気分も落ち着く。しかし、それでもダメなときがある。

6月末、ひと月入院していた母が退院することになった。ちなみに、どこも悪いところはない。不安発作を起こして手に負えなくなったのでかかりつけの病院にひと月お世話になったのだが、そのひと月でさらに足腰が弱ってしまった。実家暮らしが長引くことが確定し、いつにも増して闇落ちの気配が濃厚になる。ギターだけではこの状況を打破できないと踏んだ私はもう一つ習い事を追加した。テニスだ。

テニスは福岡で10年以上習っているのだが、こちらも腕前はテニス歴2か月程度だ。2拠点生活が始まってからというもの、テニススクールをお休みすることが増えた。しかも屋外コートのスクールなので、雨が降るとレッスンはお休みになる。この1年くらいは月に1回くらいしか行けていない。

幸い、実家の近くでチケット制だけでなく、ビジター料金の都度払いも可能なスクールが見つかった。チケット制はチケットの有効期間内に使い切れない可能性が高いので、割高ではあるがビジター料金都度払いにしてもらった。インドアコートなので雨でもテニスができる。

母のことでイライラが募るとテニススクールに行く。今年は猛暑だ。インドアコートといっても冷房があるわけではなく、直射日光が当たらないだけでコート上はおそろしく蒸し暑い。その中で80分間、全力で動き回る。レッスンが終わるころには、積み重なったイライラも雲散霧消している。ちょっとだけ晴れやかな気分で家族と向き合えるようになる。

今後も2拠点生活は続く。おそらく実家で過ごす時間が増える一方になるだろう。私のストレスはさらに増大し、また習い事を増やすことになるかもしれない。

ところで、ギターの方はギター歴半年くらいまで上達したと思っている。清水の舞台から飛び降りてギブソンのレスポールを買った甲斐があるというものだ。

練習開始後1か月の『Panama』
(この曲ではフェンダーのストラトキャスターを使っている)


2023年7月6日木曜日

母とくらせば その2

2020年に父が亡くなってからめっきり弱ってしまった母だが、去年から息苦しさを訴えることが増えた。いわゆる過呼吸なのだが、検査をしてもどこも悪いところがない。過呼吸が始まるとたいそう辛そうだし、苦しさのあまり何を言われても冷静になれず、ますます苦しくなるという悪循環だ。そうなると、病院に連れて行くしかない。

母は体に出ている症状(過呼吸)が心理的要因から来るものだと理解できないため、「苦しい=身体がどこか悪い」としかとらえられない。動いたときの動悸と、不安感が強くなったときの息苦しさの区別ができない。どちらも同じ、「苦しい」という症状なのだから。だから病院で「どこも悪くないですよ」と言われると、「そんなわけない。だって、こんなに苦しいんだから!」と腹を立てる。

今回は、5月下旬からひと月ほど入院していた。退院後すぐに心療内科を受診させた。これまでに何度か検討したものの、本人が受診の必要性を理解していないと逆効果になることが多いと主治医に言われ、受診に至らなかった。今回はさすがに本人も納得したようだった。

ところが、高齢者となると受け入れてくれるクリニックが少なくなる。最寄りのクリニックでは高齢だからと断られた。結局、主治医が探してくれたクリニックへ連れて行ったのだが、問診票に記入するのも一苦労だった(書くのは私)。本人が自分の状態(主に感情面)を理解しきれていない。認知機能に問題があるのではなく、自分の感情を顧みるという習慣がそもそもないのだ。「悲しいですか?」と問われたところで、「悲しいときもあればそうでないときもある」と、万事がそんな感じだった。

心療内科での診察で、内科で処方されている抗うつ剤の量が少なすぎること、頓服用の抗不安薬が必要であること、過呼吸で入院をする必要はないことを説明された。抗うつ剤の量を倍にし、10回分の抗不安薬を処方されたのだが、不思議なもので目の前に頓服が用意されたことで母の状態も落ち着いてきた。

とはいえ、生活を共にする者として、私と母の相性が最悪であることに変わりはない。私は来る日も来る日もガミガミと小言を言う、母はさらに卑屈に、頑なになる。そして私の小言が本当に、母が私にガミガミ言っていたときの口調そのまま、なんなら言葉も同じなのだ。そこまで刷り込まれているとは、いったいどれほどガミガミ言われてきたのだろうか。

週末、我が家に滞在していた夫が「娘にこんなにガミガミ言われたら、お義母さんが頑なになるのも無理ない」と言う。その言葉にキレそうになった気配を察してか、「放っておいても大丈夫だよ。脚が悪くて家から出られないんだから、命の危険は少ないやろ? 自分に何ができて何ができないか理解してもらうには、君が先回りしてあれもこれもやるんじゃなくて、放っておきなよ」と言うのだ。

退院して2週間、ようやく少しずつ家事をやるようになってきた。といっても、母がやれる家事は3つしかない。洗濯物を畳む、食器を洗う、米を研ぐの3つだ。もちろん、よいことばかりではない。老化のスピードは加速しており、トイレに行こうにも間に合わないことが増えた。それなのに、パンツタイプの紙おむつや尿漏れパッドは必要ないと言い張る。そのことで毎日喧嘩だ。

朝起きると、「今日も母を殴ることなく一日終えられますように」と祈り、夜寝る前に「今日も母を殴ることなく一日終えられた」と安堵する。そしてその度に、「なぜ母はいとも簡単に私を叩いたのだろうか?」と疑問に思う。私は母が嫌いだ。でも、一度も叩いたことはない。今のところ。母はどういう気持ちで幼い私を叩いていたのだろう?

2023年6月20日火曜日

スーパーのBGM問題

質問:スーパーのBGM、平気ですか?

この数年だが、私はスーパーのBGMが苦手になって困っている。まず、うるさいのだ。店舗によって音量に違いがあるのだが、私の観測範囲に限っていうと、安いスーパーほど音量が大きいのだ。だからといって、高い店に行く余裕はないので我慢している。

売り場によってそれぞれにBGMがかかっているのも困る。私がよく利用しているスーパーは店舗全体で流れているBGMに加え、魚売り場と肉売り場にそれぞれ別の販促BGMが流れている。しかもかなりの音量で。魚売り場と肉売り場の間にいると3種類のBGMに晒され、ちょっとした拷問である。だから、私は買い物に時間をかけないし、おそらくそのためであろう、買い忘れが多い。

さらに、コロナ禍でマスクを着用するようになり、客とレジ係の間にはアクリル板やビニールカーテンが設置された。それなのにBGMの音量はそのまま。声が小さめの人だと何と言ったか聞き取れずに聞き返さねばならない。お互いにストレスだ。BGMさえもう少し絞ってくれたらと思うことが増えた。

実は学生時代、スーパーでアルバイトをしていた。普段の職場はバックヤードやオフィスだったので、まったりとした有線放送が流れていた。しかし、裏方の私も年に3回、年末、バレンタイン、そしてライオンズ優勝セール(または応援ありがとうセール)は売り場にかり出されるのだ。この3つの中でも、バレンタインとライオンズセールはダントツの苦行だった。前者は国生さゆりの『バレンタインキッス』が、後者は松崎しげるの『地平を駈ける獅子を見た』(タイトルは今はじめて調べた)がエンドレスで営業時間中ずっと鳴っているのだ。

当時の私は、反吐が出るほど仕事が忙しいことよりも、時給が安いことよりも、同じBGMを聴き続けることがつらかった。バレンタインのバイトが始まると、同じ売り場の仲間と「また国生さゆり地獄か…」と嘆きあった。当然だけど、チョコ売り場の人間は全員そらで『バレンタインキッス』が歌えた。今でもバレンタインシーズンにはこの曲が無限に再生されているのだろうか?

私は翻訳の仕事ができなくなったらスーパーで働きたいと思っているのだが、このBGM問題がある限り、野球チームを持っている(または野球チームに肩入れしている)スーパーでは働けないだろう。買い物に行くたびに「この店はちょっと無理だな」とか「このくらいのBGMだと、4時間くらいなら我慢できるぞ」などと考えながら未来の職場を品定めしている。コンビニはBGMが控えめだけど、仕事が複雑そうなのでハナから諦めている。

ちなみに、ふだん仕事中はBGMゼロである。たまに波の音とか川のせせらぎのような環境音を流す程度で、クラシックすら受け付けない。


魚売り場

肉売り場

2023年4月28日金曜日

Long time no see!

アメリカに住む叔母が娘2人を連れてやってきた。厳密には母のいとこなのだが、便宜上「叔母」、その娘を「従姉1」「従姉2」とする。

叔母は2年前からふるさと福岡を訪れたいと言っていたらしいが、コロナ禍で外国人の入国が制限されていたため、ようやく今年になって実現したというわけだ。

私は従姉たちとFacebookのMessengerで連絡を取り合った。日本は4月の末から「ゴールデンウィーク」と呼ばれるホリデーシーズンでどこもかしこも混雑すること、宿泊施設は争奪戦になる可能性が高いことなどを伝えた。本当は桜のシーズンに来るつもりだったが、航空券があり得ないくらい高いうえに、まともな値段のホテルが空いていなかったため、ひと月ずらしたという。

叔母は福岡でウェイトレスをしていたときに知り合った在日米軍パイロットと結婚し、従姉1が生まれてまもなくアメリカに渡った。その後、美容師になり、今も週に2回、美容師の仕事をしているらしい。渡米後は数えるほどしか帰国していない。10回にも満たないのではないだろうか。結婚した時点で英語は問題なく話せていたので、渡米後も言葉で苦労することは少なかったという。ただ、日本人であるために差別されることが多く、娘2人は英語だけで育てた。そのため、従姉1、2ともに日本語が話せない。

学生のころ叔母の家に数日滞在して、日系人コミュニティの人にも会ったのだが、年配の方の中には英語が話せないままという方もいた。子供とはコミュニケーションが取れても、孫とは会話が通じないという人も多いと聞いた。

ちなみに、叔母が叔父と知り合ったレストランは今も同じ場所で変わらず営業している。突然訪れた3人を3代目のオーナーが出迎えてくれたという。叔母はその店で覚えた料理を渡米後も作り続け、従姉たちは「Momの料理と同じだった! すごくない?」と興奮していた。

従姉1は米国財務省の官僚をしていたのだが、昨年アーリーリタイアをした。従姉2は専業主婦。2人目を出産後、育児と仕事の両立がうまく行かずに悩んだ挙げ句専業主婦になる道を選んだ。従姉たちが最初に日本に来たのは、小学生のころだった。そのときに私も会っているのだが、当時のことについて後に「みんなが知らない言葉を話していて、見たことのない食べ物ばかりでとても困った」と言っていた。20年後に日本に来たときは、言葉は通じないままだったが、日本の家庭料理を堪能していた。

今回は2人ともスマホを駆使して交通機関を利用している様子だった。従姉1、2ともに日本という国にさほど関心がないように思えるのだが、2人の子供たちは若干とらえ方が違っているようで、いわゆる、日本のソフトコンテンツにハマっているらしい。娘たちは日本食や日本のスイーツに、息子たちはガンプラにハマっているそうだ。子供たちは祖母が生まれた国としてよりも、もっとカジュアルな目で日本を見ているのだろう。

私にはちょっと気になることがあった。日本の物価だ。昨今、食品や光熱費を中心に値上がりが続く日本だが、長い目で見ると30年前に比べて倍になっているわけではない。30年ぶりに来日した彼女たちが日本の物価をどう感じるのだろう?と興味を持っていた。彼女たちは「日本は何もかもリーズナブルよね。円が弱いからかなあ? 前来たときは、なんて物価が高い国だ!ってビックリしたけど」と言っていた。コンビニで売っているドーナツの値段にも驚愕していたし、味にも驚いていた。

「街中にも緑が多くてきれい。それに、すごーくクリーンよね! 本当に、どこもかしこもクリーン!」「ちっちゃい車がたくさん! かわいい! 私もああいうミニミニバンがほしい。アメリカの車はデカすぎ。スーパー行くだけなのに」「プリウス最高!」「子供たちだけで登下校するんでしょ? すごいよね! 学校が安全な場所って素晴らしいよ」「アメリカの日本食、ちょっと高すぎ。もう全部がアップスケールよ。息子がみそラーメン食べたいって言うから食べに行ったら50ドルよ! ラーメンってそういう食べ物じゃないよねえ?」「アメリカなんでも高すぎだよ。カリフォルニアは特にクレイジーだよ。卵1ダースで10ドルよ! ガソリンだって1ガロン5ドル超えたし!」「就職難*とかレイオフとかで大変」「気候変動のせいなんだろうけど、大雨か干ばつかのどっちか。今年は雨が多くて大変だった」「日本に来ると、アジア系の私たちは溶け込めるから快適。みんな私たちと同じくらいの大きさだし」「ほんとに実物大のガンダムがあるの?」

機関銃のように喋り倒す従姉たち。アメリカで就職難というのは意外だったが、一部職種(おそらくIT関連)を除き、仕事を見つけるのが大変、見つけてもベイエリアでは家賃が高すぎてアパートも借りられない(来月大学を卒業する息子の就職が決まらない)、コロナ禍の影響もあり大量レイオフが行われている(大手メディアで働いていた娘がレイオフされた)など、なかなか厳しい情勢のようだった。

約3時間、昼食を囲んで過ごしたがあっという間だった。喋りっぱなしで耳鳴りがしたほどだ。叔母ファミリーが帰った後、「楽しさ疲れ」した母はしばらくベッドに横になっていた。母にしてみれば、叔母にはもう会うことはないだろうと諦めていたらしい。

一方、叔母と従姉たちはテクノロジーの進歩で格段に旅がしやすくなったことに感動し、「もっと頻繁に日本に来たい! 来年は日本食フリークの娘たちを連れて来る!」と言っていた。

従姉たちと一緒に近所のセブンイレブンまで歩きながら、「そういや、彼女たちが初めて日本に来たときに、こうして3人で近所の駄菓子屋さんに行ったな」と思い出し、なんとも言えないエモい気分になった。あのときは2人と通じ合う言葉がなく、ただ黙ってひなびた駄菓子屋まで案内しただけだったが、今回は3人でワーワーお喋りしながら、ゲラゲラ笑いながら、すごーくクリーンなセブンイレブンへと向かった。


* 就職難であるのと同時に、人手不足でもあるらしい。日本と同じく、サービス業の人手不足は深刻だという。

2023年2月21日火曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー その7

まこちゃんが亡くなってからというもの、ネットの海で記事や追悼コメントを漁り続けた。音楽的な功績よりも人柄を称える記事が多く、その愛されキャラが改めて日本中に知れ渡ったのではないだろうか。幼少時代は父親がアメリカ人だということで差別されたこともあったという。それでも、家族や友人に愛され、すべてを受け入れる寛容さを育み、音楽を家族を仲間をファンを愛した人だった。

まこちゃんを追いかけるようになってから、翻訳者として一流にはなれなくても、死んだときに「寂しくなるね」と言ってもらえるような人間にならなれるのではないかと考えるようになった。まこちゃんをお手本に、「善き人」になることを目指したい。

もちろん、私が考える鮎川誠の音楽的功績についても触れておきたい。ひとつは、音楽をプレーすることへの垣根をぐっと下げてくれたこと。「大げさな機材はいらない、上手じゃなくてもいい。仲間と一緒にジャーンと鳴らせばそれだけで楽しいパーティーのはじまりだ」と。

もうひとつは、大都市じゃなくてもシナロケは来てくれたこと。全国47都道府県を全部回るツアーもやった。「俺たちロケッツは、呼んでもらえたら日本中どこでも行くよ!」の言葉どおり、地方の小さなライブハウスにも何度も来てくれた。

ギタリストとしての評価、特に技術的な評価はさほど高くないかもしれない。ただ、ギターを弾いている人にならわかってもらえるだろうが、どんなに高い技術があっても絶対に敵わないオーラ(存在感)がある人だった。「ロックは生」という言葉どおり、同じ演奏なんてひとつもない、毎回その日だけのロックを聴かせてくれた。せっかくなので、最後におすすめの曲(動画)をいくつか紹介してこのシリーズの幕を閉じたい。


『スーツケースブルース』サンハウス

この曲を聴くと、あまりのノスタルジーにお腹が痛くなってしまう。泣きのギターソロがたまらない。柴山さんのボーカルも哀愁があっていい。


『バットマン』『ビールスカプセル』シーナ&ロケッツ

これよ!これ! これにワクワクこんなら、ロックやら聴かんでよか!(暴論)


『アイラブユー』シーナ&ロケッツ

ライブでの観客との一体感がよく出ている動画。


『レモンティー』シーナ&ロケッツ

シナロケと言えば、この曲。ボーカルは三女のルーシー。コロナ禍前なので、そりゃもう大騒ぎ。はしゃいでいる私の姿も映っている。

私も10年後か20年後かはわからないけど、この世を去る日が来る。三途の川を渡ったら、あの世のシナロケのライブ会場に全力ダッシュで向かう所存だ。渡りきる手前からあの爆音が聞こえるに違いない。閻魔様を突き飛ばしてでも最前列を確保するぞ! イェーイ! アイラブユー!



2023年2月16日木曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー その6

2月4日、東京ではまこちゃんのロック葬が執り行われ、4000人を超える人が弔問に訪れたそうだ。関係者のコメントも続々と伝えられたが、その中で特に印象深かったのが、サンハウスのドラマー、鬼平のコメントだった。

「もう一度、まこちゃんのギターでドラムを叩きたかった。もう一度だけでいいから」

葬儀後、シナロケ公式アカウントが1本の動画を公開した。

2022年10月2日、別府のライブハウスCopper Ravensで行われたライブのワンシーン。撮影したのはまこちゃんの孫、ゆいちゃんだ。

別府では「地獄へドライブ」と題したライブが2017年から毎年開催されていた。サンハウスの曲『地獄へドライブ』にちなんで名付けられた別府限定のライブ名だ。そして、別府のライブはどういうわけか、たいそう盛り上がる。数年前に福岡のライブハウスで握手してもらったとき、「明日の別府のライブ行きます!去年すごく楽しかったです!」と言ったら、ベースの奈良さんが「あそこ、毎年ものすごく盛り上がるんですよね~」って嬉しそうに笑っていた。


別府Copper Ravens、2019年、シナロケリハーサル中

その、熱さで有名なCopper Ravensのライブ。しかし、2022年のライブは明らかにいつもと違っていた。

8月に久留米で行われたライブでまこちゃんが痩せていることに気付いたのだが、10月になるとさらに痩せ細った姿でまこちゃんは登場した。そして、それに反比例するかのように鬼気迫る演奏。私の中に「このライブが最後のライブになるかもしれない」という予感のようなものが芽生えた。そして、それは他のファンも同じだったのかもしれない。

亡くなった後の報道によれば、5月に余命5か月と診断されたという。つまり、10月はまこちゃんの命の灯が消えてもおかしくない時期だったのだ。思い返せば、サンハウスとしてのライブをスタートしたのも5月。もしかすると、余命が短いことを知ってのことだったのかもしれない。

5月に東京と福岡で行われたライブの音源がCD化されて販売されている。CDを聴いての感想だが、この時期の演奏はどちらかというとまとまりに欠けたリハーサル的な演奏で、リズム隊とギターがかみ合ってない印象を受けた(福岡の音源は録音マイクが良くなかったのかもしれない)。それが8月の久留米ではバンドとしてまとまり、ぎこちなさが消え、10月のライブで完成されたかのようだった。それが別府での圧倒的な演奏だ。

メンバー紹介で号泣するルーシーの姿を見ていると、あの日が鮮やかによみがえってくる。私もあのとき、あの場所で、いつもとは違う何かを受け取ったのだ。覚悟のようなものを。Let's Keep on Rockin'.

もう一度だけでいいからあのギターが聴きたい。

2023年2月4日土曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー その5

毎日のように鮎川誠に関するブログを書いているのだが、昨日あたりから私に変化が見られた。それまで、悲しさで胃は痛み、胸のあたりに詰まったような感じがしていたのだが、書いているうちにそうした症状が消えた。

まこちゃんの訃報が他の地域でどう報道されていたのかはわからないが、少なくとも福岡では思った以上に大きく取り上げられた。ローカル局の若いアナウンサーは、時折声を詰まらせながら原稿を読み上げていた。新聞は1面の半分以上を費やして報じていた。早晩、地元の音楽関係者とテレビ・ラジオ局が特番を制作するだろう。一度でも取材をすれば、言葉を交わせば、もう「他人」ではいられないのだ。

みなさんは「ベーコン数」をご存じだろうか。


==Wikiから引用==

映画俳優の共演関係の「距離」をケヴィン・ベーコンを起点に計測する「ケヴィン・ベーコン・ゲーム」[3] (Kevin Bacon Game[4]) [注釈 1]という遊びがある。ケヴィン・ベーコンと共演した俳優に「1」、「1」の人物と共演した人物に「2」というように隔たりの指数(「ベーコン数」Bacon number と呼ばれる)を与えるもので、その指数をなるべく小さくしようとしたり、より遠くの人物に結びつきを見出そうとしたりするものである。もっとも、ここでいう「共演」は端役などで同じ映画に出演したという程度の関係も含まれ、必ずしも面識を持つとは限らない。この遊びは、数学者・科学者の世界におけるエルデシュ数(ポール・エルデシュを中心とした論文の共著関係の広がり)と同様の発想によるもので[注釈 2]、1994年にオルブライト大学の4人の学生が作り出した。

==引用終わり==


ほとんどの人がベーコン数6以内でケヴィン・ベーコンとつながるらしい。ちなみに私のベーコン数は4だった。私>母方のいとこ>母方のいとこの父方のいとこ>母方のいとこの父方のいとこのパートナー(とあるミュージシャン)>ケヴィン・ベーコンだったのだ(心底どうでもいい)。

北部九州の人は「鮎川数」がすごく小さいのではないか?と私はにらんでいる。ちなみに、私の鮎川数は2だ(私>私のギターの師匠(まこちゃんと友達)>まこちゃん)。ここでは、ライブで握手してもらったとか、街中で見かけて声をかけたという程度のつながりはカウントしない。顔と名前を把握してもらっていることを条件としている。ちなみに、夫の鮎川数は3だ(夫>夫のいとこ>夫のいとこの友達(シナロケのドラマー川嶋さん)>まこちゃん)。福岡や久留米を中心に、北部九州には鮎川数1の人がたくさんいて、その人達が折に触れてまこちゃんの魅力を周囲の人に語っている。だから、ファンではなくとも、鮎川数が2以上であっても、悲しんでいる人がたくさんいる。

ところで私は、何年か前にネットで見かけた「死んだ人のことを思い出すと、天国にいるその人の周りにきれいな花が降ってくる」という考え方がとても気に入っている。先代猫たちが死んだときも、天国にいる猫たちにたくさんの花を降らせたし、今でも降らせ続けている。きっと今ごろ、天国にいるまこちゃんは花に埋もれているに違いない。きれいな花がどさどさと降り注いでいるに違いない。「わー、シーナ、見てん!こがん降ってきたよー。嬉しかねー!」とシーナと笑っているに違いない。

『夢のパラダイス』という曲にこんな歌詞がある。

あなたの瞳の泉から

あふれ出しそうな涙を

今夜真珠に変えてあげる

きっと、みんなの瞳からあふれ出した涙も、あふれ出しそうな涙も、みんな真珠になって天国のまこちゃんに降り注いでいるんだ。この歌詞を書いたのはサンハウスのボーカリスト菊こと、柴山俊之。柴山さんは『キングスネークブルース』みたいなダブルミーニングのきわどい歌詞で有名だけど、こういう情感あふれる歌詞もすごく上手い……というより、こういう歌詞の方が柴山さんらしいのかもしれないと思っている。

残された遺族はもちろんだが、柴山さんをはじめとするバンドメンバー(鮎川数1未満)の悲しみを思うと、なんだかまた胸が詰まってくる。本日2月4日、東京でロック葬が開催されるが、おそらく数千人が足を運ぶだろう。今夜みんなの涙が真珠になってまこちゃんの新たなステージを輝かせてくれるはず。

『夢のパラダイス』
作詞 柴山俊之 作曲 鮎川誠
アルバム『New Hippies』に収録


2023年2月3日金曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー その4

鮎川誠が日本でもいちはやく公式ウェブサイトを作ったミュージシャンであることを皆さんご存じだろうか。Wordpressなんてない時代に、「htmlコード手打ち」でウェブサイトを自分で作ったのだ。ウェブサイト開設までの奮闘記『DOS/Vブルース』(幻冬舎)には、悪戦苦闘しながらスキルを身に付けていく様子がいきいきと綴られている。

1996年に解説されたウェブサイトは当初のデザインのまま更新を重ね、膨大なブルース、ロック、パンクのアーカイブとして今でもほぼすべてのデータにアクセスできる(シーナ&ロケッツ公式ウェブサイト*)。ライブのセットリストも翌日には更新されていた。21世紀のウェブサイトと比べると、雑然としている印象だし、ページ数も多いし、お目当ての情報を探り当てるのも一苦労だ。でも、ぽちぽちとリンクを辿っていると、思いがけないエピソードや素敵な写真に出会うことも多い。ロック好きの人にはぜひ一度ご覧いただきたい。

ところで私は、産業翻訳者として英語を日本語にすることを生業にしているのだが、このサイトで見つけたまこちゃんの訳詞に衝撃を受けたことがある。誰の曲かも覚えていないうえに、確認しようにもサイト内で迷子になってしまっていまだに見つからないのだが、英語の歌詞から立ち上ってくるざらざらとした感覚が筑後弁(!)で再現されていたのだ。ちょうど福岡で開催される英日・日英翻訳者の国際会議の裏方をしていたときだったので、なんとかしてまこちゃんを招聘できないものだろうか?と考えたりもした。完全に、私利私欲だ(笑)

閑話休題。ウェブサイトには海外のミュージシャンとのエピソードも数多く紹介されている。なかでもイギー・ポップとブルースブラザーズとのエピソードは必読。イギー・ポップについては、去年読んだデイヴ・グロールの自伝『The Storyteller: Tales of Life and Music 』にも人情味あふれる裏話があったのだが、懐の広さや音楽への率直な姿勢がまこちゃんと同じで、読んでいてつい笑顔になった。ブルースブラザーズとのエピソードでは、最近あまり感じなくなった「さすが東京は違うな」的感情が湧き上がった。

パソコンに関しては、古希を記念したライブ(2018年7月福岡)にゲストとして出演したピチカートファイブの野宮真貴がMCのなかでちょっと触れていた。その夏はかなりの猛暑で熱中症の話題が出たのだが、「でも鮎川さんは大丈夫かな。だって、昼間はずーっとパソコンの前にいるんだし」というようなことを言っていた。また、Charとの対談では「すぐネットでギター買っちゃう」と話して、Charに「えー? ネットでギター買うの?」と突っ込まれていた。

もちろん、SNSのエゴサだって怠らない。ライブ前にファンがSNSでリクエストした曲をセトリに入れてくれることもあった。私もTwitterでリクエストした曲を拾ってもらったことが3回ある(『Dynamite』『夢のパラダイス』『ハートに火をつけて』)。偶然かもしれないが。まこちゃんについて書いたエッセイをSNSで公開したら、その日のうちに「いいね!」をもらったこともある。とにかく、「つながっている感」がハンパなかった。

このブログを書きながら、あらためてウェブサイトを見ているのだが、本当にとてつもない情報量だ。テキストと画像だけでなく、音源も数多く公開されている。福岡の音楽仲間と共に作られた「ブルースにとりつかれて」という冊子もアーカイブされていたが、発行者であった松本康さんの没後、公開元であったジュークレコードのウェブサイトが閉鎖されたために残念ながら現在はアクセスできなくなっている。サムネイルだけは残っているので、雰囲気をちらっと感じることはできるかもしれない。

シーナもまこちゃんもいなくなった今、このウェブサイトだけでもずっと存在し続けてくれることを願ってやまない。50年後、100年後に偶然このサイトを見つけた誰かが、サイトにアップされている音源にノックアウトされるさまを妄想すると楽しい。


2023年2月2日木曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー その3

鮎川誠といえばギブソンの1969年製レスポールカスタム、通称「ブラックビューティー」だ。有名なギタリストにはシグネチャーモデルがあって、専用ギターをメーカーから提供されていることがほとんどだと思う。しかし、まこちゃんの「ブラックビューティー」はギブソンから提供されたものではなく、もともとは友達の津和野君から借りたものだ(後に買い取ったらしい)。津和野君のエピソードなどは、いろんなところで耳にしたファンも多いと思う。

ちなみに、バンドブームが起きる80年代にはギブソンのレスポールのコピーモデルが出回っていて、お金のない若者に人気があった。私も夫も当時はそうしたコピーモデルを使っていた。ギブソンやフェンダーは高校生にはとても手が出ない値段だったのだ。

現在販売されているレスポールは格段に軽量化が進んでいるのだが、当時のレスポールは本物のコピーもとにかく重かった。現在、我が家にはレスポールの中でもお手ごろなStudioというモデルが2本あるのだが、どちらも重さ3.6kg、なんとフェンダーのストラトキャスターと同じだった。もちろん、まこちゃんのレスポールは軽量化など考えもしない時代のモデルだ。ある新聞記事では約8kgと紹介されていたが、さすがにそれは言い過ぎで、たぶん5kgくらいではないだろうか? 仮に、5kgだとしても、我が家の黒猫の体重と同じである。黒猫をかついだまま2時間、時には3時間も演奏するなんて、とてもじゃないが私にはできない。

演奏といえば、ほとんどのギタリストがエフェクターを使用して音を歪ませたり、パワーアップしたり、わおんわおん揺らしたりする。これは、私程度のへなちょこであってもだ。まこちゃんはエフェクターなんて使わない。でも、まこちゃんの奏でるギターは無骨で荒々しいだけでなく、実に雄弁で、豊かで、温かい。どうしてあんな音が出せたのだろう? ギターが身体の一部になっているとよく言われていたが、あのギターの音はまこちゃんの声そのものだったのかもしれない。まこちゃん亡き今、あのレスポールはもう鳴らないのではないだろうかとすら思えてくる。悲しいけど、心のどこかでそれを願う自分がいる。他の人には弾いてほしくないと。

さて、夫は高校生のころからまこちゃんを崇拝していて、学生時代にやっていたバンドでもサンハウスやシナロケの曲をコピーしていたらしい。数年前から『ユー・メイ・ドリーム』を練習して完コピしたのだが――厳密には、譜面の上での完コピ――そのサウンドには決定的に何かが足りない。彼がライブで演奏した『レモンティー』もなかなかのデキだったし、もうひとりのギタリストもとても上手だったのに、決定的に何かが足りないのは同じだった。きっと、その「何か」こそがまこちゃんが神と呼ばれるゆえんであり(「神」と呼んでいるのは我が家だけかもしれないが)、「オーラ」とか「ロック魂」とかいうものなんだろう。

2019年、ファッションデザイナー菊池武夫のバースデーパーティーで、親交のあるミュージシャンによるライブが行われた(動画はこちら)。私は曲が始まって1分くらい経ってからようやく、「あれ?まこちゃんの横でギター弾いてるの布袋じゃない?」と気付いた。あの大きな布袋ですら、まこちゃんの横では存在感が薄まってしまうのだ。鮎川ファンのひいき目だろうけど……。

SNSにはまこちゃんを偲ぶメッセージだけでなく、市中でのまこちゃん目撃談がたくさん投稿されている。まこちゃんがどんなときもオーラ全開で人々の目を引いていた証だろう。犬の散歩をするまこちゃん。天ぷら屋の駐車場でくつろぐまこちゃん。下北の街をママチャリで走るまこちゃん。雨の日に小学校に娘を迎えに来たまこちゃん。ベンチに座って空を見るまこちゃん。なかでも、一番まこちゃんらしさが伝わってきたのが、辻仁成が目撃した「食器棚を運ぶまこちゃん」(こちらをクリック)。訃報が届いてから沈みっぱなしだった我が家に笑いをもたらしてくれた辻仁成には心から感謝している。ありがとう。


2023年2月1日水曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー その2

まこちゃんがこの世というステージから降りて3日が経った。私の生活は何一つ変わることなく転がり続けている。朝、ご飯を食べてラジオ体操第一と第二を続けてやったら、パソコンの前に座って夕方まで仕事をする。そして、気が付くと「鮎川誠」で検索している。ひとしきり眺めてため息をついては作業中のファイルに戻る。

私は基本、ハードロックが好きなので、シナロケにはさほど関心がなかった。「ニューウェイブ」に分類していたし、テレビやラジオから流れるシナロケは、なんというか、ちょっと歌謡曲っぽさが強かったのだ。大学生のときに生協でなんとなくサンハウスのLP『有頂天』を買ったのだけど、あまりに暑苦しくてピンとこなかった。当時は、もっとおしゃれな音楽が好きだったのだろう。サンハウスは、あまりに泥臭く、濃厚すぎたのだ。

ちなみに、今はサンハウスを聞くと夏の筑後平野とか、夏のJR鹿児島本線の各駅停車の列車が頭に浮かぶ。九州のサウンドだなあと思う。

社会人になると呑気に音楽を聴く暇などなくなってしまった。30過ぎてから、また音楽を聴くようになっても、当然ハードロックとかメタルばっかり聴く。ギタリストだってテクニカルなギタリストが好きだし、私にとっての神はリッチー・ブラックモアであり、高崎晃であり、ヌーノ・ベッテンコートだったのだ。

それなのに出会ってしまった。知人を案内して訪れた佐賀バルーンフェスタのイベント会場で、シナロケがライブをしていたのだ。歌謡曲っぽさなんて、みじんもなかった。ゴリゴリにロックだった。ぶっといギターサウンドが真っ正面から私に殴りかかってきた。「あ、これだ!」と思った。初めてギターをアンプにつないで大きな音を出したときのワクワクする感じ。何も加工されていない無骨な音の衝撃。そして、長身で黒い服を着て、黒いレスポールカスタムを持つあの姿。それまでに見てきたどんなギタリストよりかっこよかった。カッコよさだけで言えば、クラプトンですら鮎川誠の足元にも及ばないのだ。

それなのに、まこちゃんはとても優しい。誰にでも等しく優しい。ロックが好きなら、世界的なミュージシャンであれ、ライブを見に来たただのファンであれ、みんなに同じように接してくれる。快くサインに応じ、握手して「来てくれてありがとう」と喜んでくれる。まこちゃんの方が喜んでくれるのだ。そんなミュージシャンいるだろうか?

ライブの客層は総じて年齢層が高い。私ですら「どちらかというと若い方の客」なのだ。それでも、ちらほらと若い人を見かける。毎回のように親や友人に連れられて「初めて見に来た」という人を見かける。終演後に彼らが興奮気味に、「カッコよかった! すごかった!」と語るのを常連たちはニヤニヤしながら見守る。

どうして「カッコいい」「すごい」以外の言葉が出てこなくなるのだろう? ずっと考えているけど、いまだにわからない。浜辺で楽しく水遊びをしていたら、突然ゴゴゴ……と大きな波がやって来て、ザブンと飲みこまれてグルングルン流されていく感じなのだ。何度も何度も大きな波の中に飛び込み、グルングルン流されながら、キャーキャー喜んでいた私たちは、今、大海の真ん中にポツンと取り残されてしまった。

幸いにも、各種音楽配信サービスで(おそらく)全アルバムが配信されている。公式の動画もたくさんある。ファンが撮影した写真や動画もたくさんある(シーナが亡くなった直後のライブでまこちゃんが「みんな、写真とか動画とか撮って他の人にも見せちゃって!」的に言っていたのだ)。今日も明日も、仕事の合間に動画を見ながら、小さな波に乗って、自力で水をかきながら、陸地へと戻ろう。3、2、1、0、Dynamite!


2023年1月31日火曜日

I Love You: 鮎川誠フォーエバー その1

鮎川誠、2023年1月29日没、享年74歳。

まこちゃんの訃報を知ったのは1月30日の夕方5時頃だった。親戚の葬儀に出席した私と夫は、早めに外で夕食を済ませてしまおうとサイゼリヤにいた。いつものように山のように料理を頼み、仕事のメールをチェックし、SNSを開いた瞬間、そこに現れたまこちゃんのモノクロ写真。「ひゃ!」と小さく叫んでスマホの画面を夫に見せる。夫は大きなため息をつくとうつむいてしまった。テーブル一杯に並んだ料理を、ふたりとも無言で口に運び、ボロボロこぼれる涙をティッシュで拭いながら食べ終わると、そのまま無言で帰宅した。夫はその後、何時間も無言のまま、ただひたすらこれまでに撮ったまこちゃんの写真を見ていた。

2018年に、飲食店の駐車場でばったり遭遇して握手してもらった。「そういえば、20年くらい前にライブ行ったなあ。また行ってみよう」と軽いノリでシナロケのライブに行った。脳天を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。トークショーで「間違えたらどうしよう?なんて考えるのはロックじゃなかよ!」というまこちゃんの言葉を聞いて、ほったらかしにしていたギターをまた弾き始めた。そして去年、思い切ってギブソンのレスポールを買った。次のライブでお話しできたら「私もレスポール買いました!」と報告したかった。福岡、佐賀、熊本、大分。行ける限りライブに行った。どのライブもまこちゃんのパーソナルベストだった。

2022年8月、福岡県久留米市の石橋文化センターで「サマービート2022」というライブイベントが開催された。1966年に高校生のまこちゃんが初めて人前で演奏した場所だ。そのとき、2月のライブで見たときより明らかに痩せているのが気になったが、猛暑ということもあって、夏痩せなんだろうと思った。このときはサンハウスとして、シナロケとして、合計3時間を超えるライブでいつもどおり、いや、いつも以上に熱く会場を沸かせてくれた。

同年10月1日、福岡で見たまこちゃんは8月よりもさらに痩せていた。10月2日に別府で見たまこちゃんは鬼気迫る演奏だった。きっと、痛みだってあっただろう。それなのに絶句するほどすごいギターだった。終演後、ライブハウスを後にするお客さんはだれもがため息交じりで「すごかった!」と口にしていた。「すごかった」としか言いようがない演奏だった。それと同時に、「鮎川さん、すごい痩せてたけど大丈夫かな?」という声も聞こえた。

10月22日、シーナの故郷、福岡県北九州市若松区で開催された高塔山ロックフェス。シナロケの演奏が始まって3曲目だったか、ギターソロに入った瞬間、照明が全部落ちた。ステージが真っ暗になってもバンドはまったく動揺することなく、いつもに増して熱い演奏を続けた。観客がスマホのライトでステージを照らす。緊急用の照明だけの薄暗いステージでも、何一つ変わらない。「レモンティー」が始まると照明が全部復活した。会場のボルテージがこれ以上ないほど湧き上がる。他の出演ミュージシャンも交えてのアンコールでは、元ルースターズの大江慎也がサイドギターを弾く。いつも気難しそうな顔をしている大江慎也が、少年のように嬉しそうにギターを弾いていた。そして、この日がまこちゃんを見た最後となった。

12月、鮎川誠急病という知らせに胸騒ぎを感じつつ、祈ることしかできなかった。ウォーキング中に立ち寄った神社では、家族や自分の無事など何一つ祈らず、ただ「私の寿命を5年くらいあげますから、まこちゃんを連れて行かないでください」と祈った。神社を見かけると毎回、同じことを祈った。その後もライブのキャンセルが続いた。

1月30日。私の世界からしばしの間、色と音が消えた。

1月31日。まこちゃんがいなくなった世界でも朝は来るし、世界は昨日までと変わらず転がり続ける。私には今日中に訳さなければならない原稿がある。月末だから請求書だって作らなければならない。

これからもずっと握手してくれたときの大きな手の温かさを忘れない。「明日のライブも行きます!」と言ったときに「うわー!明日も来てくれるとね!楽しみやねー!」と言ってくれたあの笑顔を忘れない。どんなに悲しくても、どんなに世界が理不尽でも、生きている限りロックしようぜ。それがまこちゃんとの約束だから。

We must keep on Rockin'!